解説: 日本をアメリカとの無謀な戦争に走らせたものはなにか? 

 ある年齢以下の人たちにとって、かつて日本がアメリカと戦争をしたことが信じられないはずだ。「あの世界一の大国に対して、なぜ?」という素朴な疑問が出るだろう。

 真珠湾攻撃の「生みの親」山本五十六・連合艦隊司令長官も1940年秋、「アメリカと戦争するということは、ほとんど全世界を相手にするつもりにならなければ駄目だ」と語っていた。それでも「やむにやまれず、自衛戦争に突っ込むしかなかった」というのがよく言われる説明だ。有馬学「日本の歴史23帝国の昭和」は「開戦に至る過程は、各政治勢力がその時その時の最悪の選択を避けようとして行った決定の積み重ねなのだ」「途中では誰も主体的決断をしていないのに、最終的には重大な決定がなされてしまうという、意思決定過程の不思議な特徴」と表現する。

 天皇は絶対不可侵の存在とされていたものの、さまざまな事情から、内閣と陸軍、海軍などの間の意思疎通が決定的に欠落。天皇の意思さえ事実上無視され、国の運命と国民の生命を賭けた戦争に、国家としての共通意思がないまま突入した――。それが太平洋戦争開戦の実情だったといえる。

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連合艦隊司令長官・山本五十六 ラバウルにて ©文藝春秋

国民総生産(GNP)は日本の約12倍、石油生産量は約712倍

 当時も工業生産力を中心にした国力の比較はされていた。開戦9カ月前の1941年3月、陸軍省整備局は対米戦争の物的基盤の比較研究の結果、「2年以上の対英米戦は不可能」と報告していた。1941年、アメリカの国民総生産(GNP)は日本の約12倍、石油生産量は約712倍、粗鋼生産力で約12倍、自動車保有台数は約161倍。差は歴然だった。1941年9月5日、永野修身・海軍軍令部総長は、昭和天皇に「絶対に勝てるか」と問われ、「絶対とは申しかねます。しかし、勝てる算のあることだけは申し上げられます」と返答している。

 さらに、永野軍令部総長は戦後こう回顧したという。「当時の日本は瀕死の重症患者で、これを救う道は思い切った切開手術をほどこす以外にない。このまま放っておけば死は確実だが、手術すれば助かるかもしれぬ。開戦直後の戦には相当の自信がある。長期戦はどうなるか分からぬ。南方資源地域を占領し、鉄でも油でもどしどし持って来ることができれば、長期戦にたえる見込みがつく。一か八かやってみる以外に国を救う道がない」。つまり、戦争は南方の資源地域の占領を前提にした“バクチ”だったということだ。

昭和天皇 ©文藝春秋