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連載昭和の35大事件

「なぜアメリカ相手に戦争?」ペリー来航から“88年の怨念”が導いた太平洋戦争の末路とは

国家としての共通意思がないまま突入した全面戦争

2019/11/10

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, 歴史, メディア, 政治, 国際

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ペリー来航を「不本意な開国と条約締結」と認識

 秋山は琉球貿易史研究の草分けだったが、戦時中は軍国主義の時流に乗ってジャーナリズムの売れっ子に。2回目の「隠忍まさに百年」で、10年前の1932年12月8日(とすると、本当は9年前だが)に「日本が国際連盟総会で「日本民族の進むべき道を断固として全世界に表明した日である」と記述。松岡(洋右)全権が「日本は東亜を救うために腕一本で闘っているのだ」と叫んだとしている。しかし、実際に松岡が連盟脱退を表明したのは翌1933年2月24日。その前にそうしたことがあったのだろうか。

東京朝日に掲載された秋山謙藏の論文

 3回目の「無限の躍進へ」では「過ぐる五十年、アメリカの東亜進出の拠点であったハワイ、フィリピンその他、全てわれらの日章旗の下に制圧された」とするなど、緒戦の勝利に気分が高揚したまま書いた印象。興味深いのは、「88年」を恨みや怨念を持ち続けた期間としている点だ。マシュー・ペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊が1853年に浦賀に来航して通商などを迫ったのを、軍事的圧力による砲艦外交と捉え、日本にとっては脅迫されて応じた不本意な開国と条約締結だったという認識だ。

「88年の怨念」を晴らすために開戦した

 清沢洌は「暗黒日記」の中で、秋山のことを「右翼歴史家」「盛んに元寇の役と神風を説いている」などと何回か記述。1945年4月6日の項では、「大東亜戦争を導いた民間学者の中で最たるものが二人ある。徳富蘇峰と秋山謙蔵だ。この二人が在野戦争責任者だ」と名指ししている。

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 そこで取り上げているのは、4月4日付読売に掲載された秋山の文章。幕末の下関戦争と薩英戦争について「ペルリ(ペリー)の意図、すなわちアメリカの意志が薩英戦争となり、馬関砲撃から今日の大東亜戦争にまで一貫する敵米の決意なのだ」と主張。「この八十余年というものは、日本が米英と対等の立場にあって戦える、すなわち東亜保衛の実力を蓄積するための歳月であった」「大東亜戦争は必然の運命であったのだ」と、敗戦4カ月前に至っても、「八十余年」を繰り返している。

 そうした認識は秋山だけではなく、ある程度、当時の人々の間に共有されていたようだ。開戦直後にはほかにも文化人やジャーナリストの何人かが「88年」という言葉を使っている。

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