1ページ目から読む
2/7ページ目

「対英米戦争を辞せざる決意の下に、戦争準備を完整す」

 1941年10月、近衛文麿首相の第3次内閣が総辞職。「軍を押さえられる」という理由から、後任に東条英機陸軍大将(陸相)が決まったとき、昭和天皇はこう言ったといわれる。

「いわゆる虎穴に入らずんば虎子を得ずということだね」

 1941年4月に始まった日米交渉で、日本は「アメリカ政府の斡旋による『支那事変』の解決」などを主張したが、アメリカは日本軍の中国大陸からの撤兵などを要求して難航。7月に日本軍が南部仏印(当時)に進駐すると、アメリカは態度を硬化させて対日石油輸出全面禁止に踏み切った。これが日米開戦を不可避にした。8月30日、陸海軍合意による「帝国国策遂行要領」がまとまる。「対英米戦争を辞せざる決意の下に、おおむね10月下旬を目途に戦争準備を完整す」。大きく戦争に傾いた方針だった。

ADVERTISEMENT

「支那の奥地が広いと申すなら、太平洋はもっと広いではないか!」

 9月5日、昭和天皇に報告した杉山元・陸軍参謀総長は、のちに有名になる会話を交わす。天皇に「日米に事起こらば、陸軍としてはどれくらいの期間に片付ける確信があるか」と聞かれた杉山は「南洋方面だけは3カ月で片付けるつもりであります」と答える。昭和天皇の追及は厳しい。「なんじは支那事変当時の陸相であるが、当時『事変は1カ月くらいで片付く』と申したことを記憶している。しかるに、4カ年の長きにわたっていまだに片付かぬではないか」。

 参謀総長が「支那は奥地が開けていて、予定通り作戦できませんでした」と弁解すると、天皇は声を張り上げて「支那の奥地が広いと申すなら、太平洋はもっと広いではないか!」と叱責した。

陸軍参謀総長・杉山元 ©文藝春秋

 近衛文麿首相は中国での日本軍の限定駐兵を日米交渉で持ち出そうと、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領とのトップ会談を模索したが拒否され、東条英機陸相の強硬な反対にも遭って内閣総辞職。首相となった東条は天皇の平和意思を受けて一時は戦争回避を模索するが頓挫した。

「それには二つの障害があった。一つは参謀本部作戦課を中核とする強い戦争志向であり、もう一つはハル国務長官に代表されるアメリカ政府の非妥協的な原則主義的立場であった」と五百旗頭真「日本の近代6戦争・占領・講和」は指摘する。