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開戦への動きを知っていた人間はほんの一握り

 そして遂に開戦。幕開けとなった戦いは、厳密には真珠湾攻撃でなく、それより約1時間早いマレー半島東岸コタバルへの上陸だった。

 12月9日付の東京朝日朝刊は「米英膺懲 世紀の決戦」の見出しでこう「自衛戦争」を強調している。「隠忍自重ひたすらに太平洋の平和を念じていた帝国の努力も遂に空しく、八日未明、日米英間に砲煙が上がった。きょうぞわが無敵陸海軍の精鋭が、光輝ある歴史の行く手に立ちはだかる暴虐米英打倒のために堂々の猛進撃を開始したのだ」。開戦への動きを知っていた人間はほんの一握りだった。

開戦を知らせる記事(1941年12月9日東京朝日新聞より)

 権力の中枢にいた人々の当日の行動は本編にある通り。筆者の星野直樹は、「満洲皇帝擁立事件」の解説でも取り上げた、「満州」で力を振るった「二キ三スケ」の1人で「満州国」総務長官を務めた。この時は内閣書記官長の要職にあり、戦後の東京裁判でA級戦犯として終身禁固刑に。1958年に釈放され、会社社長などを歴任。1978年まで生きた。

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「日本も、けさから、ちがう日本になったのだ」

 一方、いまに残る国民の「十二月八日」の反応としてほぼ共通しているのは、「白樺派」の作家長与善郎の次のような感想だ。

「生きているうちに、まだこんなうれしい、こんな痛快な、こんなめでたい日にあえるとは思わなかった。この数カ月と言わず、この1、2年と言わず、われらの頭上に暗雲のごとく覆いかぶさっていた重苦しい憂鬱は、12月8日の大詔渙発とともに雲散霧消した」

 ほかにも同様の感想は数多い。

「私はもう新聞など読みたくなかった。今朝来たばかりの新聞だけれど、もう古臭くて読む気がしないのだ。われわれの住む世界は、それほどまでに新しい世界へ急展開したことを、私ははっきりと感じた」と書いたのは作家の上林暁。作家で評論家の伊藤整は「人々があまり明るく当たり前なので、変に思われる」「バスの客、少し皆黙りがちなるも、誰一人戦争のことを言わず」「『いよいよ始まりましたね』と言いたくてむずむずするが、自分だけ昂ふんしているような気がして黙っている」と書いている。

 詩人高村光太郎は、霊的な感動を味わい、高揚した気分で次のような詩を詠んだ。

記憶せよ、十二月八日。
この日世界の歴史あらたまる。
アングロサクソンの主権、
この日東亜の陸と海とに否定さる。
否定するものは彼等のジャパン。
眇(びょう)たる東海の国にして
また神の国なる日本なり。
そを治(しろ)しめしたまふ明津御神(あきつみかみ)なり。

 作家・太宰治さえも、ラジオで開戦のニュースを聞いた後のことを「しめきった雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光のさし込むように強くあざやかに聞こえた。二度、朗々と繰り返した。それを、じっと聞いているうちに、私の人間は変わってしまった。強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ。あるいは、精霊の息吹きを受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ」と書いている。

 その中でも普段と変わらず無関心だったのは“変人”の永井荷風くらいだろう。「日米開戦の新聞号外出づ。帰途銀座食堂にて食事中、灯火管制となり、街頭商店の灯り、おいおい消えゆきしが、電車、自動車は灯を消さず。六本木行きの電車に乗るに、乗客押し合うが中に、金切り声を張り上げて演説をなす愛国者あり」。荷風以外の人たちのそうした心情はどこから来たものだったのか?

永井荷風 ©文藝春秋