日米開戦の契機は「日中戦争の構造そのもの」
一般に言われてきたのは、「満州事変」(1931年)から既に10年が経過。日中全面戦争に移って(1937年)から「東亜新秩序建設」という抽象的なスローガンを加えたものの、依然として目的がはっきりしない戦争だったことだ。日本軍は広大な中国大陸の「点」しか制圧できず、中国軍との戦いは泥沼化。国民の生活にもさまざまな制約が加わっていた。「国民精神総動員」、国家総動員法、国民徴用令、物資の配給統制、「ぜいたくは敵だ」のスローガン、隣組制度……。想像以上に頑強な抵抗を続ける中国軍の背後にアメリカとイギリスがいることは、日本国民のほとんどが知っていた。
「太平洋戦争の歴史」は「日米開戦をもたらした決定的な契機の一つは、日中戦争の構造そのもののうちに存在していた」と分析している。それでも「紀元2600年」の1940年、文藝春秋が12月号に掲載した世論調査では、「日米戦は避けられると思うか」という問いに「避けられる」が412人(60%)で、「避けられない」262人(38%)を大きく上回った。当時の人々もまだ「アメリカと戦う」ことが想像できなかった。
その根底に「勝てるわけがない」という不安があったのは間違いないだろう。その不安が消えたのは、緒戦のハワイ真珠湾攻撃とマレー半島電撃戦で日本軍が「赫々=かっかく=たる(華々しい)戦果」(当時の慣用句)を挙げたのを「大本営発表」で知ってからだった。
「結果はどうあれ、これで決着がつく」という世論も
この間、国民の多くは一向にらちがあかない日米交渉にいらだちを隠せなかった。それが開戦となって、「いよいよ真の敵との勝負。結果はどうあれ、これで決着がつく」という気持ちになったのかもしれない。さらに、そこには日米の歴史的な関係も絡んでいた。
開戦から8日後の1941年12月16日付から3回続きで東京朝日朝刊4面に「米・英撃滅、最初の誓」という署名記事が掲載された。筆者は当時、国学院大教授で統制機関「大日本言論報国会」理事の歴史学者・秋山謙蔵。「今から八十八年前、紀元二千五百十三年、日本に対する『遠征』を敢行し、もって不平等極まる条約を『和親』の名において与え、イギリスの獲得していた上海貿易に介入せんとしたアメリカは、いまや八十八年の野望を微塵に破砕されたのである。その最初の日がまさにわれらの光栄ある日―紀元二千六百一年十二月八日である」。1回目の「わが歴史の確認」ではそううたい上げている。