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連載昭和の35大事件

「なぜアメリカ相手に戦争?」ペリー来航から“88年の怨念”が導いた太平洋戦争の末路とは

国家としての共通意思がないまま突入した全面戦争

2019/11/10

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, 歴史, メディア, 政治, 国際

強硬姿勢を示した「ハル・ノート」と、開戦に踏み切った4つの理由

 11月1日、大本営政府連絡会議で「対英米蘭戦争を決意する」とした新たな帝国国策遂行要領を決定。日米交渉の期限を12月1日午前0時とした。この会議で東郷茂徳外相は「これ以上の武力進出は行わない」として南部仏印進駐以前の段階に戻す「乙案」を対米交渉の最終案として持ち出して認められた。

 これに対し、アメリカのコーデル・ハル国務長官は11月26日、「仏印及び支那からの全面撤退」などを内容とする「ハル・ノート」を提示した。内容は日本の要求に対する「ゼロ回答」。軍部は「満州事変以前の状態に戻せという主張」と強く反発し、開戦への流れが決定した。東条首相は11月29日の重臣との懇談会で、石油などの資源・原料不足の危惧から開戦に否定的な意見を述べた若槻礼次郎ら元首相3人に「心配ない」を繰り返した。

「帝国は対米交渉に就いては、譲歩に次ぐ譲歩をもってし、平和維持を希望した次第でありますが、意外にも米の態度は徹頭徹尾、蒋介石の言わんとするところを言い、従来高調した理想論を述べているのでありまして、その態度は唯我独尊、頑迷不霊でありまして、はなはだ遺憾とするところであります。かくのごとき態度は、わが国としては、どうしても忍ぶべからざるところであります。もしこれをしも忍ぶといたしましたら、日清、日露の成果をも一擲するばかりでなく、満州事変の結果をも放棄しなければならぬこととなり、これは何としても忍ぶべからざるところであります」

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 これは対米英開戦を決定した12月1日の御前会議で、原嘉道・枢密院議長が表明した意見。11月26日にハル国務長官が強硬な内容の「ハル・ノート」を提示したのを受けてのことだったが、「当時としてもっとも簡にして要を得た対米英開戦の『大義名分』のロジックであった」(黒羽清隆「太平洋戦争の歴史」。

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 木坂順一郎「昭和の歴史 7 太平洋戦争」は、開戦に踏み切った理由を

(1)日本が中国から撤兵すれば、満州事変と日中戦争の成果が全てふいになり、「満州国」も朝鮮統治も危うくなるばかりでなく、多くの犠牲を強いられてきた国民に申し訳ない
(2)戦争回避に政策を転換すれば、国民の不満が爆発して、内乱や暴動が起こるかもしれないと危惧した
(3)合理的・科学的な判断を欠いた冒険主義的心情に基づき、恐るべき故意の楽観がまかり通った

 としている。要するに「座して死を待つより、一か八か打って出るべきだ。戦争によって死中に活を求めるべきだというのである」(同書)。

戦争終結構想は実現性のない「取らぬタヌキの皮算用」

 一方で、戦争をどのように終結させるかについては、陸軍省軍務課が中心になって研究した結果を基に、開戦わずか1カ月前の1941年11月15日の政府大本営連絡会議で「戦争終結構想」の「腹案」として決定された。それはおおよそ次のような内容だった。

(1)フィリピン、マレー、シンガポールなどのアメリカ、イギリス、オランダの根拠地を覆滅し、重要資源地域を確保して自給自足態勢を整え、適時にアメリカ海軍主力を撃滅する
(2)イギリスを屈服させるため、オーストラリア、インドとイギリスの連絡を遮断してインドの独立を目指す
(3)アメリカの継戦意識を喪失させるため、フィリピンを占領して取引材料としてアメリカを懐柔し、対米通商破壊戦を徹底。アメリカとオーストラリアの離隔を図る

(4)戦争終結の機会として、南方主要作戦の一段落、中国の蒋介石政権の屈服時、ヨーロッパの戦局の変化の好機をうかがい、外交宣伝を強化する

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 対アメリカの戦争に勝算が立たないため、長期持久戦を戦い抜いてアメリカの戦意を喪失させることに主眼があった。しかし、蒋介石政権相手でさえ苦戦を続けているのに、ドイツに対イギリス戦勝利を期待するなど、構想は実現性の疑わしい「取らぬタヌキの皮算用」だったといえる。