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新聞縮刷版の項目に「自殺・心中」があった時代

「三原山をさ迷ふ 危ふかつた心中者」(女性の別の男性との縁談を悲観して心中しようとした群馬県の男女が山中で保護された)=2月17日付朝刊、「大島へ自殺行 轢逃げ運転助手」(東京で車の運転練習中、自転車の男性をひき倒して逃走した男が大島署に連行された)=20付朝刊、「文学青年三名 三原山心中未遂」(同性心中を図ったが、噴火口近くで思いとどまった旧制中学の生徒3人が取り調べを受けた)=2月23日付朝刊、「三原山で浦高生自殺」(19歳の旧制浦和高校1年生が黒マントを残して噴火口に飛び込み自殺した)=2月28日付朝刊……。

 ちなみに、このころの新聞社会面は連日、自殺と心中のオンパレード。新聞縮刷版の項目に「自殺・心中」があったほどだった。三原山での自殺は「大正十二、三年ごろ、母娘の抱き合い投身があった」(「自殺について」)ほか、かなり起きていたようだ。「御神火茶屋の監視人の述懐によると、監視は昭和6年からできたものである。それまでは監視者とてなかったのであるが、それでも数百人の人々を救助しているとのことである」(同書)。「それにしても、昭和7、8年の日本は異常な時代だった」と「決定版昭和史6満州事変」中の鯖田豊之の論文「情死・自殺ブームとその時代」は言う。

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「三原(山)病」「三原(山)患者」という言葉が生まれた

 2月26日には、松葉づえの若い女と二人の青年が同情自殺を企てたとして保護された(28日付朝刊)。その後も騒動は続く。4月14日には横浜高等女学校の同級生2人が「三原山に行く」と言って家出した(16日付朝刊)。4月18日朝、火口見物に来ていた東京・銀座の食品店勤務の18歳少年が、「誰か飛び込む者はないか」というヤジに「俺が飛び込むから見ておれ」と言い残し、あっという間に躍り込んでしまった(19日付夕刊)。5月7日の日曜日、「三原山の朝は風なく白煙天をつき、約1500名の見物人が殺到したが、そのうち例によって火口へ飛び込んだ者、男6名、未遂1名、大島署で保護した男10名、女15名、服毒自殺男1名あり、見物客の心を寒くした。1日に6名は最近のレコードである」(5月8日付朝日朝刊)。

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 そのうち、「大勢の観衆の眼前で大手を広げて火口に飛び込み自殺を遂げた」のが京都市の男性と判明。「この飛び込み悲劇の舞台裏に、やはり『死の立ち合い男』が一名登場していたことが判明した」と伝えたのは5月10日付朝日夕刊。大阪の28歳の男で、「名古屋駅から同じ列車に乗り合わせ」「三原病患者と知るや、『死の東海道列車』内でお互いに三原山絶賛の言葉を投げ合い、三原山行きとなった」という。

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 このころ、既に「三原(山)病」「三原(山)患者」が新聞紙上などに頻出するようになっていた。5月10日には、「巧みに警戒突破 男女そろって飛び込む」(見出し)と、その年初めての男女の「三原山心中」が起きた(5月14日付朝日朝刊)。7月には4人の男性が見物客の目の前で次々火口に身を投げたが、最後の1人は飛び損ねて戻ってきた。4人それぞれ事情があったが、偶然ぶつかり合って集団自殺の形になったという。