昌子の兄が反論「非人道的抹殺記事だ」
こうしたメディアの姿勢に、昌子の兄・富田廸夫は婦人公論1933年6月号の「世に虐げられたる愛妹昌子を憶ふ」という文章で痛烈に反論した。
「ジャーナリズムは僕の骨肉の妹を殺した!」と叫び、「妹を疲弊さしたのはまず第一に××新聞の非人道的抹殺記事だったのだ。しかして僕の愛妹は『あの人たちにすまない』と言わねばならぬ立場だったのだろうか。彼女が二人の頑強な自殺者に取りつかれたために、あまりにも人の愛を知らぬ不幸な友を二人までも親友にしたためにこんな目に遭ったのだ」と訴えた。
「新聞のセンセーショナリズムが三原山事件を必要以上にクローズアップし、自殺・心中ブームの幕開きを用意した」と「日本の百年7アジア解放の夢」も厳しく指摘している。
過熱報道は新聞だけではなかった。この時期、こうした事件に反応するのは女性雑誌(当時は婦人雑誌と呼んだ)を中心にした雑誌だった。
週刊朝日は2月26日号で「嘆きの青春 近代女学生気質」「春浅し・花咲かで散った制服の処女ふたり」という見出しで、同時期に、愛人の芸妓に走った前衆院議員の長女が自殺した事件と合わせて、三原山の事件を論じた。婦人倶楽部は4月号で「特派記者」による「三原山の煙と消えた女学生自殺の真相を探ねて」で3人の女性の足取りをたどった。
婦女界7月号は読売の火口探検の「立会記」。文藝春秋の「話」9月号は「本社特派員」2人による「三原山自殺者を救ひに行く」と“大きく出た”長大な現地取材ルポを掲載した。その中では、火口に飛び込む自殺者を複数目撃しているほか、こんなことも記録している。「『一つくらい、飛び込むのを見物していきたいもんだな』と、登りの時一緒だった紺の背広の青年紳士が遅れて上がってきていたが、こんな冗談を言ったりした」
年間を通じては男804人、女140人が死んだ
結局、「前年の三原山自殺者が自殺9名、未遂30名だったものが、この年1933(昭和8)年は1月から3月までの間に自殺者32名、未遂67名に達し、年間を通じては男804人、女140人が死んだ」(「日本の百年7アジア解放の夢」)。
若者たちが三原山での自殺に引かれることについて、当時もさまざまな論評や分析がメディアに登場した。「別にどうということもなく、性格の問題で、いつの時代にもあることだ」(作家・菊池寛)、「自殺した貴代子さんの心理は、昔ながらの、動揺期における突き詰めた死へのあこがれというものだろうか。
現実的になりつつあるという現代の若い女性通有の傾向から遠く離れた生活態度の結論だと言ってはいけないだろうか」(作家・吉屋信子)、「原因は分からないが、感情障害に起因するものが大部分を占めているものではないかと思う」(歌人、精神科医・斎藤茂吉)……。
ただ、全体として事件の特殊性に戸惑った感じが強く、的確な発言は少ないように思える。「自殺について」は「問題の焦点となった点はどこにあろうか」と自問。自殺における(1)集団性(2)開放性(3)伝染性(4)遊戯性―の4点を挙げている。「白日の下に、見物人の中から飛び込んだりする」開放性という指摘などはジャーナリスティックで興味深い。
5月14日付読売朝刊文芸欄では、元読売・朝日記者で評論家の新居格が「三原山階級批判」のタイトルで社会時評を書いている。その中では「『三原山階級』には『三原山患者としての自殺者』と『モブ』の2種類がある」とした。モブとは群集心理に惑わされた人々のことか。そして「三原山患者は時代の生んだ泡沫的畸形態で、流行ではあるが、時代遅れな時代中毒性というほかないのである」と結論づけている。