この六月は、勝新太郎の死去から丸二十年にあたる。
「豪快な映画スター」というパブリックイメージの定着している勝だが、筆者が今から七年前に評伝『天才 勝新太郎』を刊行した際は映画製作者としての一面に着目、自らの映画作りの理想に囚われるあまり挫折していった様を描いた。そのため、「こういう姿も知ってほしい」という想いが強くなり過ぎて、その後に勝を語る際はどうしても「実は繊細な男」という視点からになっていた。結果、パブリックイメージ的な側面を語るのは避けてしまいがちだった。
だが、そもそも筆者が勝に惹かれていったキッカケは、画面狭しと暴れまわる、そのエネルギッシュな姿だった。これを語らないのは、どこか窮屈さがあった気がしていた。そこで、この二十周年を機に原点回帰してみようと思う。
今回取り上げる『御用牙』は、豪快な暴れん坊としての勝の魅力が満ち溢れた作品だ。
勝が演じるのは江戸北町の同心・板見半蔵。とにかく正義感の強い一本気な男で、奉行だろうが与力だろうが、納得のいかないことには正面を切ってくってかかる。「じゃかあしいや!」「やれるもんならやってみろ!」勝ならではの切れ味の良い口跡が活かされた、豪傑キャラクターだ。
物語は、半蔵が将軍側室の悪事に立ち向かっていくというもので、半蔵と側室直属の暗殺集団との死闘が大きな見せ場になっている。空手に柔術、さまざまな武器や仕掛けを駆使して凄腕の敵をなぎ倒していく半蔵のアクションシーンでは、勝のワイルドな魅力が遺憾なく発揮されていた。
が、この男の最大の武器は他にある。それは男根だ。
風呂場で熱湯をかけ、棒で叩き、米俵に突き――物語序盤、謎のトレーニング場面が五分近くにわたって繰り広げられる。それが何のためだったかは、少し後で判明する。劇中、二人の女が重要な証人として登場するのだが、その口を割らせるためだった。半蔵は女をさらい、自由の利かない体勢にさせて犯す。最初は女たちは抵抗する。だが、やがて鍛え抜かれた半蔵の男根の虜になり、問われるまま何もかもを吐いてしまうのだ。
考えてみると酷い話だ。だが、懸命なまでの男根トレーニング風景とその時の勝の真剣な眼差し、そして女を抱いている時の邪気のない勝のつぶらな瞳を見ていると、厭らしい不快感は不思議なくらい全くなくなる。それどころか、その野放図な少年のような勝の姿には、どこか可愛らしさすら覚えてしまうのである。
徹底して馬鹿馬鹿しい展開の作品ではあるが、それすらも力でねじ伏せて納得させる。これぞ、勝新太郎だ。