重度障害者2名が参議院選挙に当選し大きな話題を集めてから8か月余り。今、彼らは何を考え、どこに向かっているのか。れいわ新選組の木村英子参議院議員に、議員と同じ重度脳性麻痺者のライターである私、ダブル手帳(@double_techou)がインタビューした。

 この取材のために新幹線に乗ったところ、駅員や車掌の方々の態度が以前とまるで違った。「車椅子席が狭くてすみません」などと言われたのは生まれて初めてだ。間違いなく、木村議員が委員会でその問題を指摘したことによるものだろう。私も木村議員の影響力をひしひしと感じている障害者の1人だ。(前中後編の#2/#1#3を読む)

木村英子議員

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振り返ると「生意気な人だった」

――生い立ちやこれまでの経歴について教えてください。

木村 1歳前に歩行器ごと玄関から落ちて障害を負い、間もなく施設に預けられて、物心ついた時には施設でした。リハビリと手術の毎日でしたが、手術を繰り返すごとに障害が重くなっていって。18歳までは、ほとんど施設と養護学校に居ましたね。

――長い間、施設におられたんですね。「自立ステーションつばさ」(*)の現代表で、養護学校時代の後輩の藤吉さおりさんに当時の木村議員の印象を伺ったら、「すごくオシャレで、憧れの先輩だった」と仰っていました。

木村 オシャレはしてないんですけどねえ(笑)。そうだったのかな(笑)。

*……木村議員らが中心となり1994年に多摩市に設立した障害者の自立生活支援団体。

――ご自身で振り返ると、どんな子どもでした?

木村 苦言を言う生意気な人だったとは思います。それが後輩から見ると、憧れに繋がるのかはよく分からないですけど。近寄りがたかったのかな。

――社会福祉研究クラブというところに在籍していたそうですね。

木村 そうですね。そこに入ったのがきっかけで、いろいろな新聞記事や、地域で自立生活しておられる障害者の手記を読んだり、セミナーに参加したりして。

 それまでは「私は障害があるから、健常者と同じ夢は持っちゃいけない」「自分は役に立たない人間だから外に出ちゃいけない」と思っていたんですが、クラブの活動を通して自我が目覚めていったというのはあると思います。

壮絶すぎる女子高生時代

――そのクラブが校長と対立していたという話も拝読しました。当時の校風は、やはり「自立なんて絶対駄目」という感じだったのですか?

木村 はい。まず、1人で外に出ることすら許されないので。校長と対立したきっかけは、私が1人で電車やバスに乗った自分の姿を写真に撮って、文化祭で上映したこと。あとは、主演の劇で、養護学校批判をやったことですね。

 そうしたら私と親が校長に呼ばれて、「これ以上やるなら退学させますよ」という感じのことを言われて。その後、社会福祉研究クラブは潰されそうになりました。

新型コロナウイルス感染対策のため、当日はマスク着用でインタビューに答えた木村議員

――なかなか壮絶な弾圧ですね。

木村 あと、同じ部屋の子に話しかけられなくなりました。「親から『英子ちゃんとは話しちゃ駄目』って言われてるから話さない」とか言われたり。

 別に闘うつもりじゃなかったんですけど。わがままだったんだと思います(笑)。

――先程、高校生の時に劇の主演をされたと仰いましたね。演劇はお好きだったんですか?

木村 そうですね。声を使うのが好きだったんです。高校1年の時は演劇部でしたし。中高通して、施設の中で放送クラブや昼休みのDJ、校内放送などもやっていました。

――本当にお声が綺麗ですよね。

木村 いやー、最近はちょっとトーンが落ちたので。午前中の声は絶対聞きたくないってみんなに言われます(笑)。