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佐藤 苦境を訴えたら、菊子の方から自分が働いて学資を送ると申し出たのだ

裁判長 女の厄介になって勉強するより、男らしく女の援助を断って一本立ちになり、勉強すべきではなかったか?

佐藤 それまで考えなかった。夫婦愛の現れだと思う

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裁判長 菊子の並々ならぬ苦労をどう思うか

佐藤 いまもなお感謝している

裁判長 学位を得たころから菊子を避けているが、どうか

佐藤 何とも申し訳ありませんが、学位を得る以前から多少嫌気がさしていた

裁判長 どこが気に入らないのか?

佐藤 行儀が悪く、親たちを侮辱した

法廷内で前後に並んだ広瀬菊子と佐藤幹男(大阪毎日)

◆◆◆

 滝川幸辰弁護人から「あなたから菊子宛ての手紙に、一度も主婦としての修養をしてくれとのことがなく、いつも金のことばかり言っているが、どうしたことか」と問われると、「どうも、そう言われると困ります」と答えた。その後、菊子が再び被告席に呼び出され、元「夫」と対面。質問を求められたが、「菊子は初めて身を震わせて『いまさら聞くことはありません』の一言に全てを諦めた心境を吐露し……」と大毎の記事は書いている。

 10月7日の3日目は菊子の実兄・尊興や菊子の勤務先である吉村病院の病院長夫人ら多数の証人が証言。最後に菊子が「金を送ったことを恩に着せたことはないばかりか、私の口から幹男に送金していることを誰にも言いませんでした」と述べた(10月8日付大毎)。

「法律的には本件は被告が加害者であるが、実質的には被告が被害者である」

 10月14日、検察側は無期懲役を求刑した。担当の坂井丈七郎検事は、佐藤幹男を「身勝手であり利己主義」などと決めつけて菊子に同情的な論告を展開したが、「“苦闘に同情すれど他戒を忘れえず”」(10月15日付大毎夕刊見出し)として求刑は無期に。「ことの意外に傍聴席はどっとざわめいた」(同紙)。

 滝川幸辰弁護人が戦後出版した回顧録「激流」によれば、坂井検事は彼の京都大教授時代の教え子だった。事件後だいぶたってから、滝川は坂井検事にこう言ったという。「君の論告はひどく被告人に同情していたので、これでは弁護人が弁護する必要なし――と思っていたところ、求刑の場になって、被告人には無期懲役が相当であるときたから、私はびっくりした」。10月15日付大毎朝刊は「各方面の冷静な感想」を集めている。「検事さん無情」(代議士夫人)、「(佐藤博士の)博士号を褫奪(ちだつ=剥奪)せよ」(女医)といった同情論のほか、弁護士が「及ぼす社会的影響の深刻なだけ、個人的同情は別として、社会的立場から厳正な批判を加えられなければならない」と主張した。

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 大毎の別面では、求刑後に行われた滝川弁護人の弁論内容が詳しく報じられている。弁論は約3時間にわたり、その中では「被告は医師なるがゆえにチブス菌を摂取すれば罹病をすることも知り、その死亡率も知っているが、一方、医師なるがゆえにチブスで死ぬ人が少ないことも知っているはずだ。すなわち20%の死亡率にすぎない。チブス菌をもってして殺意がありと判断することはあまりに飛躍だ」などと主張。「未必の故意による殺人ではなく傷害致死だ」と述べた。さらに「法律的には本件は被告が加害者であるが、実質的には被告が被害者である」と情状酌量を訴え「佐藤と被告の事情をご賢察のうえ、執行猶予の恩典にあずかりたい」とした。