1ページ目から読む
5/6ページ目

「菊子に三年の判決 傷害致死と傷害未遂を適用 傍聴席から拍手の嵐」。新聞統合で兵庫県唯一の地元紙となった神戸新聞1939年11月5日付(6月4日発行)夕刊はこう報じた。同日付大毎夕刊は「雨中にもめげず、傍聴者の列は長々と続き、開扉10分にして大法廷は立錐の余地なく『押すな』『苦しい』『つぶれる』とひしめき合い……」と記述。神戸新聞も「裁判所開庁以来の大盛況を呈した」と書いた。

 判決は被告・弁護側の主張通りの「寛刑」だった。「(青木裁判長が)『分かったか』と念を押せば、満廷は破れるばかりの大喝采。婦人連はいずれも情の判決にハンカチを目に当て、うれし泣きの感激シーンを演出」と神戸新聞の記事。手を額に当て「ほっと一息の広瀬菊子」の説明が付いた写真も載っている。滝川弁護人は「誠に申し分のない判決」と最大限の評価。しかし、そのまますんなりとはいかなかった。

「懲役3年」一審判決を伝える神戸新聞

 検察側は即日控訴。年が明けた1940年3月4日、大阪控訴院での控訴審判決は「死の転機を生ずるかもしれぬことを予見しながら」と未必の故意を認定し、殺人と殺人未遂を適用して懲役8年の刑を言い渡した。そして同年6月27日の上告審で大審院は控訴審判断を支持して上告を棄却。刑が確定した。

ADVERTISEMENT

「戦争の時代」は菊子の罪を許さなかった

 一審では、たぶん裁判長(京都大で滝川弁護人の1期下だった)の個性もあって予想外の寛刑となったが、流れは決まっていた。無期求刑の反響を取り上げた大毎の記事で、経済学者の河田嗣郎・大阪商大(現大阪市大)学長は「自分さえ目的を果たせばそれでよいというような彼女のものの考え方は、今日の時代にどうかと思います」と述べた。一審判決時の神戸新聞の記事でも、生島廣治郎・神戸商大教授(経済学)が「国民精神総動員の建前からいって、3年の判決は軽きにすぎると思う」と語っている。

 国民精神総動員とは、1937年に発足した第1次近衛内閣が、同年の日中全面戦争開始後、「挙国一致、尽忠報国、堅忍不抜を3目標として始めた戦争協力の教化運動」(「別冊1億人の昭和史 昭和史事典」)。日中戦争が泥沼化する中で、事件の年の1939年2月には、平沼内閣が国民精神総動員の強化方策を決定している。「戦場の後方」の意味で戦時の一般国民社会を示す「銃後」という言葉が広がっていた。そうした銃後では家族は仲良く、妻は夫を支えなくてはならない。まかり間違っても、夫の殺害を図る妻など存在してはならなかった。一審を担当した坂井検事は滝川弁護人に「(菊子に同情的な)論告と(無期懲役の)求刑が食い違っていたことは私にも分かっています。それには訳があるのです」と答えたという。心情的には理解できても、戦争の時代がそれを許さない状況にさせていたということだろう。

©iStock.com

「兵庫県警察史 昭和編」は、菊子について「昭和18(1943)年に仮釈放となり、大陸へ渡って終戦を迎えているが、その後の消息については省略する」と書いている。判決の刑期よりかなり短いが、「婦人倶楽部」1949年4月号に掲載された「恋愛―離婚―毒殺―服罪 チフス菌事件の主人公 女医広瀬菊子さん新生の記」という記事によると、京都府宮津の女囚刑務所で服役。模範囚で約2年8カ月後、1943年4月29日の天皇誕生日に帰宅を許されたという。恩赦でもあったのだろうか。チフス菌饅頭事件を取り上げた澤地久枝「チフス饅頭を贈った女医」(「昭和史のおんな」所収)によれば、「外地へ行くこと」が仮釈放の条件だったという。