その後、中国大陸に渡ったことは間違いないが、具体的な事実関係は、婦人倶楽部の記事と「チフス饅頭を贈った女医」で異なっている。日本製鉄(当時)が出資した竜烟鉄山の付属病院に勤務。医師業務もしたというが、その場所を婦人倶楽部は「蒙彊の宣化」とし、「チフス饅頭を贈った女医」は張家口(河北省)としている。現地で偶然、路上で佐藤幹男と遭遇したとされるが、その場所も「チフス饅頭を贈った女医」は張家口、婦人倶楽部では引き揚げる途中の天津で、となっている。
「何か悩める女性のために力になりたい」高知市議会議員に
敗戦で1946年、郷里の高知・戸波村に引き揚げた菊子は予想外の行動で再び世間の注目を集める。1947年4月30日施行の高知市議会議員選挙に立候補したのだ。「定員36名に対して立候補者127名」で「婦人議員として広瀬菊子が最高点で当選したことが注目された」(「高知市議会史・中巻」)。党派は「中立」で、職業は「無職」だったが、2位の倍以上の2868票を獲得。婦人倶楽部の記事によれば、国内では医師免許が剥奪されていたが、「何か悩める女性のために力になりたい」と考えていたところ、地元紙に取り上げられ、離婚や財産問題などで相談を持ち込まれるようになった。そして、周囲から推されて市議選に出馬することになったという。チフス菌饅頭事件で集めた同情と共感がまだ地元では生きていたのだろう。
また、市議と兼ねて高知軍政部保健衛生課に勤務している、と記事にある。当時日本を占領していた連合国軍総司令部の地方機関で、高知県内を巡回して生活保護受給世帯の実態調査をしていたという。市議は1期のみだったが、その後、医師免許が回復。勤務医として活躍したようだ。「チフス饅頭を贈った女医」には1979年の時点で「満78歳となった現在、週に3日、直接診療には携わらないが、病院へ出向き、あとの日々は、自宅横の小さな畑の草取りなどをして静かな余生を送っている」と書かれている。
【参考文献】
▽「兵庫県警察史 昭和編」 兵庫県警察本部 1975年
▽滝川幸辰「激流 昭和レジスタンスの断面」 河出書房新社 1963年
▽「別冊1億人の昭和史 昭和史事典」 毎日新聞社 1980年
▽澤地久枝「チフス饅頭を贈った女医」=「昭和史のおんな」(文藝春秋1980年)所収=
▽「高知市議会史・中巻」 高知市議会 1970年