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「息子を死なせたくなかったら陸軍大学校へ」 無謀な戦争で、山本五十六は何を目指したか

戦後75年 『昭和史七つの謎と七大事件』より #1

2020/07/15

genre : ライフ, 歴史, 読書

note

アメリカ留学経験があった山本五十六

 真珠湾奇襲攻撃には、アメリカは本当に驚いた。なぜならばアメリカは、日本が最初に攻撃をしてくるとすれば、それは太平洋の真ん中にあるハワイではなく、ハワイより近く、アジア最大のアメリカ軍基地があるフィリピンだと予想していたからだ。その予想を裏切って真珠湾に奇襲攻撃をかけたのだから、軍師としての山本五十六がいかに能力のある軍人だったか、よくわかるだろう。

 実は山本は、アメリカに留学経験があり、駐在武官も体験したことがある。日本の軍人には珍しい国際通であった。彼は連合艦隊司令長官の前に海軍次官だったが、この時に陸軍が推す日独伊三国同盟に大反対であった。それに対し、陸軍が彼に圧力をかけ、右翼が山本の命を狙うという騒ぎになった。

米内光政(左)と山本五十六

 昭和6年以降の異常な状態の日本において、そういう柔軟で冷静なものの見方ができる軍人だからこそ、山本五十六は真珠湾を叩くという、どの国の海軍史上でもありえない作戦を立てることができたともいえる。軍官僚では、とても思いつかない発想だ。

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「1年間は暴れてみせましょう。だが、それ以上は」

 実は山本は、この戦争の無謀さをよく理解していた。内心、軍事冒険主義だと思っていた節さえある。

 彼は、首相の近衛文麿に、日米戦争が勃発した時の見通しを尋ねられたとき、こう答えている。

「自分は軍人だから、戦争をやれといったらやります。そして最初の1年間は暴れてみせましょう。だが、それ以上はわかりません」

 日中戦争が始まり、日本は昭和15年には北部仏印進駐、翌年には南部仏印への進駐という、軍事冒険主義をすすめる。それに対し、アメリカは在米日本資産の凍結や石油の日本への輸出全面禁止、そして最後通牒のように日本の権益、領土、同盟の放棄をうたったハル・ノートを突きつけるのだが、確かに山本も日米開戦はもう避けられないと考えた。しかし、日本軍が軍事的に優位に立てるのはせいぜい1年くらい。それも、誰もが予想だにしない奇襲作戦で、アメリカを混乱におとしめるしかチャンスはない。そう山本が思い、真珠湾作戦を発案したのが、昭和15年5月頃だったといわれている。