家族のあり方が多様化して行ったアメリカ
英国法を引き継いで家長の絶対的な権力からスタートしたアメリカだが、1970年代以降、家族のあり方は急激に多様化していく。
浮気のような責めるべき理由が相手側になくとも、関係が破綻していれば離婚が認められるようになる。離婚率が急速に上がると同時に、再婚率も高くなる。そしていくつもの血の繋がらないステップファミリーができ、母の再婚相手に温かく迎え入れられ、強い絆で結ばれる子どもたちが、そこかしこに見受けられるようになる。さらに90年代以降には、ゲイビーブームの波に乗って同性カップルの子育てが増加する。
「家族」というのは、血で結ばれた集団とは限らず、「荒波で揉まれた船が、いつ帰ってきても錨を下ろせる港」—家族という拠り所を感動的に表現する判例も現れる。
60年代のアメリカの女性差別はひどかった。ついこの間まであんなに差別していたのにと鼻白む向きもないではないが、極端から極端へと振れる国がアメリカである。いまやアメリカの「家族」は、血縁をその真ん中には置かず、そこからどんどん遠ざかりつつある。
「大人になってからの養子縁組」という風習
では、日本の家族は血縁を重視してきたのだろうか。この点は、家族法の学者の中でも意見が分かれる。日本では大人になってからの養子縁組の風習がある。これは海外から見ると異例である。血のつながらない人を連れてきて家を継がせる。これだけ見ると、血縁へのこだわりは、近隣の中国や韓国と比べるとかなり薄い。
さて、このような養子縁組は、なぜ行われるのだろうか。それは、跡継ぎがおらず、そのままでは断たれてしまう「家」を次の世代に残すためである。日本の家族制度が重視してきたのは、自分の血脈を孫子の代まで残すことよりはむしろ、「家」を絶やさずに世代を超えて残していくことであるとの説明がある。
では、「家」って果たして何なのだろう。ものすごく、古臭~い、黴臭~いニオイがしてきそうな言葉である。だが、これを現代にも続く「企業」の仕組みとする家族法の説明に出会ったときに、私はすとんと腹落ちした。それぞれの家には「家業」がある。歌舞伎がその一例だ。代々お煎餅を作っている老舗もあるだろう。この家業を世代を超えて連綿と残していくための装置が「家制度」なのである。
だから、経営者は次世代の有望な者を探してきて継がせる。ソフトバンクグループ代表の孫正義さんの後継者探しがニュースになった時期もあるが、あれと同じである。「家」という、一見すると古臭い制度が、見方によっては、現代まで続く合理的なシステムであると分かる。