文春オンライン

「こんな場所に、いるはずじゃなかったのに。」――綿矢りさ「激煌短命」第一回

2020/10/08
note

「あんた、残りものには福やな。それは寄付してもらった紺のかすりで、一番上等の生地やで」

 着付けの先生はそう声をかけてくれるけど、私の手にある浴衣は七十歳くらいに見えるその先生の着ている浴衣とそっくりだ。他の女子たちが持ってるパステル調の淡い色合いで可愛いデザインの浴衣とはずいぶん差がある。

 なんとか女子のみんなが肌じゅばんを着終えたころ、だれかがドアをノックした。

ADVERTISEMENT

「先生すみません、男子の方が収拾つきません」

 学級委員の小林君は、着替えてる女子に配慮して、ドアを開けずに外から叫んだけど、残念ながらその声だけでも、下着が透けるほど薄いじゅばんしか着ていない状態の女子たちから悲鳴が上がった。上野先生がドアの外へ出て小林君と話してからまた戻ってきた。

「男子が先生のいない間に遊び回っているようなので、私はあちらへ行きますね。みなさん帯をつける直前の工程までは進んでおいて。もし上手く着れない人がいたら、家庭科部の吉村さんと悠木さんに助けてもらって下さい。二人は部活動で着付けの練習をしてて、もうプロ並みやねんよ」

 上野先生は私たちのハードルを上げきったあと、特別講師も連れて教室を出て行ってしまった。浴衣と格闘する女子たちから次々に声がかかり、急に私たちはいそがしくなった。一夜漬けの私はなるべく目立たないように千賀子ちゃんの後ろへ隠れて、色とりどりの腰ひもを首にぶら下げたまま、やみくもに立ったり座ったりしてみんなの姿を鏡でながめ、手伝ってるふりをした。

綿矢さんが描いた「たむじゅん」

「久乃、こっち来て手伝って。裾の高さが合わへん」

 田村順子のドスのきいた声が遠くから飛んできて、逆らえない。彼女とは小学校が一緒で、家も同じ町内だったので、集団登校は毎朝一緒だった。小学生のころは普通だったのに、中学に入ってからどんどん派手になって、近所の人たちはバイクを爆音で乗り回すグレ気味のお兄さんの影響があるんだろうとうわさしている。あだ名は小学校の頃と変わらず“たむじゅん”で、バレーをやっていたからか背が高くて肉付きも良いから、見下ろされると、仁和寺の門前に立つ金剛力士像なみに迫力がある。長い前髪をコギャル風にふわふわしたヘアゴムで頭のてっぺんに集めてまとめているのも、仁王への空目を後押ししていた。

 たむじゅんは、私が彼女の足下にしゃがんで浴衣の裾を整えている間、うっとりと姿見をのぞき込んでいた。

「なぁ、うちってなんでこんなカワイイんやろな。まつ毛くるんってしてんの、これ天然なんやで」

 小学生の頃はこんなこと言うタイプじゃなかったのに、いきなりどうした? スポ教のバレー部で、汗かいて体育館を走り回ってたやん、洗濯で縮んだ“田村”のゼッケンつけた体操服着て。鏡のなかの上目遣いのたむじゅんは、限界まで上も下もそった細眉のせいで、眉近くの筋肉の盛り上がりが目立ち、メンチを切っているように見える。

「悠木さん、こっちもおねがい。おはしょり処理できひん」

 すぐ隣から声がかかり、移動した私は声の主の、ピンク地に朝顔の柄の浴衣のおはしょり部分を下へ引っ張って、たるみを整えた。