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「こんな場所に、いるはずじゃなかったのに。」――綿矢りさ「激煌短命」第一回

2020/10/08
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※こちらは2019年8月号から雑誌「文學界」に連載中の小説「激煌短命」のWEBバージョンです。

◆◆◆

 和室の豆電球は黄ばんだ暗がり。私は今夜も眠れない。となりで目をつむる兄の顔は、バターでこしらえたように、とろりと輪かくがあいまいで、いまにも溶けそう。こわくなって目をそらしたら、黒ずんだ畳の目からは小さな虫がたくさんわいてきそうで、また兄の顔に目をもどす。

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 ネグリジェのそで口のゴムをかんでいると、ツバがしみてきた生地がだんだんふんにゃりしてきて、ちょっと気持ちが落ち着いた。小さなウサギの絵がちらばるあかね色のネグリジェは、フリルのゴムの引きしぼりがきつくて、寝るまえに身体があったまると、いつも手首がかゆくなる。ワンピースを着た小さなうさぎのがらは、かわいいんだけど。

 兄がうっすらと目をひらいた。あんまり静かにひらくので、おどろくひまもない。兄も眠らずにただ目を閉じていただけだったみたいで、まっすぐな眉の下の瞳は、りりしく光っている。

「久乃はあの音、聞こえてんのか」

「え?」

 はじめなんのことか分からなかったけど、耳なれた音がすでに聞こえているのに気づいて、私はうなずいた。

「お兄ちゃんも聞こえてたんや。いっつも鳴ってるやんな」

 毎晩いっしょに寝ていたけど、この音について兄がふれたのは初めてだ。

 体温が布団にしみてほの温かくなるころ、今夜もまた、あの音が響いてる。ふつうの雑音とはちがい、ごくささやかなのに窓を閉じていても外からじんわりしみてきて、こまくをすり抜けてさらに深く奥へ入り込み、低い振動で奥歯を細かくゆすぶる。思い出せないほどの昔から、聞こえていた。毎晩聞こえるわけじゃない。もしかしたら聞こえる曜日は決まってるのかも、確かめたことはないけど。

©iStock

「気になっててん、いっつもこの時間帯になると聞こえるやろ? ほら、ボーッて鳴ってる」

 兄は布団をはい出ると、立ち上がって障子と窓を開けた。私も起きて兄の隣に立ち、開け放した窓から少し身を乗り出す。

 夜の外の音を聞くなんて、大みそかの除夜の鐘のとき以来や。

 注意しないと気づかないくらいかすかに、止んだり、始まったり。止んだり、始まったりしながら、音は眠りかけの町に、うすくかぶさってる。

「船が出発するときの音みたい」

「汽笛か、たしかに似てるな。でもこの近くに海なんてあらへん」

 山に囲まれたこの町で、たしかに私は海なんて見たことがない。でも聞こえる、汽笛の音が。星座でできた幻の船が波止場を離れて出港し、夜の空を進む。

 兄は左大文字があるらへんの、くろぐろとした山を指さした。

「山から鳴ってるんかもな。反響してる音にも似てるし」

「やまびこ?」

 兄が軽く笑う。

「こんな夜に、だれが声だしてるん? こわっ」

 こだまが、遠くにいる仲間のこだまといっしょに、やまびこして遊んでるねん。なだらかな山の斜面を、風に乗ってゆっくりとすべり落ちながら。

「人工と自然の、ちょうど中間みたいな音やな」

「だれかが窓開けて、ほら貝を吹くのを練習してるかも」

 私の言葉に兄が笑う。

「久乃はおもろい事言うな。なぁ、オトンとオカンって、この音のこと知ってんのかな」

 兄は最近、父と母のことをオトン、オカンと呼びだしたけど、そのひびきはいまいち兄に似合ってない。

「気づいてないんちゃう」

「ありうるな。もしかして、これって子どもにだけ聞こえる音ちゃう? モスキート音って言ってな、蚊の出す超音波は、まだ耳がそだってない子どもにしか聞こえへんらしいねん」