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「こんな場所に、いるはずじゃなかったのに。」――綿矢りさ「激煌短命」第一回

2020/10/08
note

 二

 中学生になってから初めての中間テストが終わると、ちょっと気が楽になった。どの教科も拍子抜けするほど簡単だったけど、それがこの学校のレベルだからか、はじめてのテストで先生が手加減してるからか分からない。たぶん次回の試験からは応用問題が増えて、高度な暗記や複雑な思考の能力が試されるはずだから、油断はできない。

 今日は朝から特別授業で、教室にかばんを置いたあと、授業を受ける教室のある校舎へ向かう。雨だれの伝う校舎は入学のときはベージュ色だったが、梅雨入りしてからは地面に近い下の方が苔むして、うすいグリーンになっている。

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 傘をさして武道場の近くを通ると、足元になにか落ちていて拾った。まだ青い梅の実だ。見上げると木には同じ実がたくさんなっている。

 果肉は指で押すと弾力が返ってくるくらいのやわらかさで、うす黄緑色の皮にはすべらかな短いうぶ毛が生えている。泥を指でぬぐってから実を鼻先へ持ってくると、梅干しのような酸っぱさはなく、甘くさわやかな桃に似た香りが鼻孔に行き渡った。また同じ場所へ置くと他の生徒に踏まれそうだから、武道場前の茂みに向かって実を投げたら、ごつっと木の幹にぶつかった音がした。

©iStock.com

 ふだんは茶道部が使ってる和室を借りて始まった浴衣の着付けの授業は、女子だけがいる。男子はとなりの、多目的室で授業を受けている。家庭科の上野先生と、きもの教室からボランティアで来た特別講師の先生は、たった一時間で男子と女子両方の着付けを完了しなければいけないので、大いそがしだ。

 家庭科部の私は特別補助として同じ部員の千賀子ちゃんとヘルプに出てくれと、この前の部活のとき上野先生からお達しがあったから、ずっと緊張していた。

 手伝わなあかんの嫌やんなぁと千賀子ちゃんに言ったら、

「私のおばあちゃん舞踊してるねんけど、けいこでいつも浴衣着たはんねん。私もよく着せてもらってたけど、着せる側もやってみたいと思ってたし、うれしいわ」

 と返ってきた。部活で習って一夜漬けの私とは経験の年数がちがう。

 少し鼻にかかった小さな声で話す千賀子ちゃんは、私にとっては天然の加湿器みたいな存在で、部室で作品制作をしていると、おたがい何もしゃべらなくても一緒にいるだけで心が落ち着く。頭頂部から入念に編み込まれた、彼女の密度の濃い三つ編みは天然のあめ色で、蜜が染み込んでるみたいにしっとり光沢がある。

 先生が畳の上に置いた二つの木製の乱れ箱には、うす紅や淡黄色、空色などの生地に四季折々の花が描かれた浴衣がうず高く積み上がっていて、クラスの女子たちから歓声がもれた。

「このなかから皆さん好きな浴衣を選んでください。中学生の学習用に新しく買ったんもあれば、着付け教室の生徒さんが寄付してくれたんも混じってます」

 特別講師の言葉に、たちまちみんな浴衣の山に群がる。いきなりバーゲン会場と化したその場の雰囲気についていけず、遠巻きにながめていると、みんながいなくなったあとの乱れ箱には、渋すぎる麻の葉模様の紺の浴衣しか残ってなかった。