戦後生まれのサウナと女性との関係――。それは決して良好なものとは言い難かった。

 高度経済成長期のサラリーマンと共に発展し、三業地に多く存在したその業態特性から、サウナは時に、“不健全な場所”というイメージも背負わされてきた。それゆえ、女性が足を運ぶ場所ではなく、その距離は近年まで縮まることはなかった。そんな“女性とサウナの距離”を縮めた一人の経営者がいる。平井要子、その人である。

平井要子さん

 産まれも育ちも墨田区両国。典型的な江戸っ子気質の一方で、学生時代から自らマイカーを運転し、遠路はるばる自由が丘のサウナに通っていたという、アヴァンギャルドな一面も持つ。

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 “すべての人々が安心して入れる温浴施設”を標榜し、清潔でおしゃれ、ゆったりとした休憩空間とコワーキングスペースを備えるなど、江戸の伝統と最先端が共存した東京一“粋”で“WOMEN’S FIRST”な温浴施設『両国湯屋 江戸遊』。そのオーナーである平井の人生も波乱万蒸だった――。

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サウナに咲いた「一輪のバラ」

「20歳の時に女性専用サウナが自由が丘の目黒通り沿いにできて。最初は友達と一緒に行ったんですけど、私が一番ハマっちゃったんですよ。汗をかいてから水風呂に入ったときの爽快感が忘れられなくて。しかも、女性サウナっていうのは当時どこにもなかったので、それからはしばらく通いつめました。

清潔感があり適度な湿度のサウナ室。すごく落ち着いた気分になれる

 その後、向島にも女性専用のサウナができまして。向島っていうのは花街だったから当時は芸者衆が何百人っていて、街全体が艶っぽかったんです。サウナに来てる方々もまだ年齢が若い人が多かった。

 今でも覚えてるんですけど、ある日、私よりも少し年上のすごく色っぽい女性が薄暗い小さなサウナ室のベンチに座っていたんです。横目でちらっと見ると、ちょうど太ももに彫ってある綺麗なバラがほんのり赤くなっていって……。あまりに綺麗だったんで、後日、友人にそのことを話したら『それは色っぽいね』って(笑)。なんか高倉健主演の仁侠映画の世界みたいですよね? サウナで花が咲いたんだなって」

女性専用の「アロマスチームサウナ」。温度45度前後に温めた室内で、香り高い天然アロマオイルのスチームに癒される。桃色から白へのグラデーションでローズをイメージしたデザインも特徴だ

「サウナは“男のもの”」という時代に生まれて

 1960年代後半。この時代は、全共闘をはじめとする学生運動真っ盛り。日本大学芸術学部写真学科に在籍していた平井も当然、そのど真ん中にいた。

「大学が閉鎖されて、4年生の1年間は大学に全く行けなかったんです。だからその分サウナにはよく行ってました(笑)。当時、サウナは“男のもの”。飲みとセットで楽しむ印象が強く、女性とサウナは縁遠かったんです。飲み屋のお姉さんが、アルコールを抜きに来たりするっていうのは聞いたことがありましたけど、敷居が高くて。だから純粋に女性が、サウナを楽しむことを目的に通うことは結構珍しかったかもしれません。