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「この英語の歌をカラオケで歌えるようになりたいねん」――綿矢りさ「激煌短命」第二回

2020/10/28
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 生まれるまえからの付き合いなら、さっきの雰囲気もうなずける。私はふたたび朱村さんの持ってきた歌詞カードに目を落とした。

「Eternal Flameっていうんや。私は知らんけど、有名な曲なん? なんでこの歌がいいん?」

「うちの店内BGMによく流れてて、好きやねん。でも英語分からんし、どんな意味か知らんけど。なぁどうやったら英語の発音ぽく聞こえるように歌える?」

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「とりあえず発音記号を意識して発音してみたら」

「発音記号ってなに? 習ったような気もするけど、覚えてへん」

 歌詞にhandの文字を見つけたから、発音記号のæをノートに書いた。

「へえ! こんなんあるんや」

「最初の方の授業で習ったで」

「どんな発音なん?」

「AとEを足したような発音。アとエをくっつけて、ねちゃっこく発音する」

 からりとした響きの日本語に比べて、英語は、いつもチューイングガムを噛みながらしゃべってるみたいな、あいまいな口の開け方だ。日本語を話すときには使わない口の形に、唇と舌が筋肉痛になりそうになる。

「声に出してゆってみて」

「えー、恥ずかしい」

「でも見本聞かんと練習できひんやんか」

 それもそうや。私が不恰好にならないよう、慎重に唇を引き伸ばして「æ」と発音すると、朱村さんが首をかしげた。

「普通のエとどう違うの?」

「æ」

 恥かしさを捨てて、思いきり唇を広げて誇張すると、朱村さんも同じ唇の形になる。

「æ!」

「そう、できたやん」

「悠木さんって、ひよこみたいな唇の形してんな」

「発音してたからやろ」

「ううん、普通のときも上くちびるがとがって、ぴよぴよ言いそう」

 

 思わず唇を触る。自分の上くちびるの形なんて、いままで考えたこともなかった。

「悠木さんはリップ何使ってるん」

 私が筆箱からレモンケーキ味の小さなリップクリームを取り出すと、彼女は首を振った。

「あかん、こんなんオモチャやん。だからかさついてるねん。イズミヤの近くにシミズドラッグストアあるやろ、あそこリップ豊富やし、今日学校終わったら買いに行こ」

「やめとく。制服姿でうろついて、先生に見つかるとこわいし」

 放課後生徒たちが好き勝手しないように、生活指導の先生が自転車で校区をパトロールしている。

「じゃ、家で制服を着がえてから行けばええやん」

 うちはいったん帰ったら、また外に遊びに行くのは難しい。親に外出の理由を説明しないといけないからだ。

「これはどんなメロディの歌なん?」

 話をそらしたくて聞くと彼女は、教える必要が無いほどこなれた発音で歌の一節を口ずさんだ。

「上手いやん! ネイティブが歌ってるみたい」

 彼女はニッと唇の両端を引っ張り上げた。

「耳コピ。ここだけ、何回も聞いて練習してん。でも耳で聴いて覚えただけやし、だいぶ間違ってるやろ。だって単語の一つ一つを読むことすらできひんし。そや、サビのとこだけでいいし、カタカナでルビふってくれへん?」

「あかん、そんなことしたら自然に出来てる発音が台無しになる。このまま耳コピで全部覚えた方が綺麗に歌えるって」