文春オンライン

「この英語の歌をカラオケで歌えるようになりたいねん」――綿矢りさ「激煌短命」第二回

2020/10/28
note

 舞台上のスクリーンに映し出された、映画仕立てのビデオ教材が流れている間、生徒たちは終始うるさかった。教材は二十年前ぐらいに作られたのではないかと思うほど古く、どう見ても成人してる男性が小学生から中学生までを演じていた。映写機で舞台上の巨大なスクリーンに映し出される荒い映像の中で、自分のルーツを友達にからかわれ、黄色い学帽をかぶった男の子が小学校の校庭にあるジャングルジムのてっぺんに座り、どうしてボクはいじめられるのかと泣きだしたとき、ちゃんと見ていた少ない生徒たちからも笑いのさざ波が起こった。

 うちのクラスは特に騒がしく、集中力を欠いている。橋本くんは中腰の姿勢でクラスの列を行ったり来たりしてせわしないし、朱村さんにいたってはスクリーンに完全に背を向けて、たむじゅんや自分のグループの子と普通の音量の声で雑談している。他の生徒も似たりよったりで、誰とも話してない子だけが画面をながめたり、あとは三角座りのひざに額を埋めて寝ちゃってる子もいる。

 そのうち体育館内はさわがしくなりすぎて、映画の音声がほとんど聞こえなくなり、まじめに見ていた子さえ見続けるのをやめる始末だ。

ADVERTISEMENT

 不思議なのがいつもの集会や特別合同授業のときは少しでも騒いでる生徒がいたら怒号を上げる先生たちが、今日はどれだけうるさくなっても舞台近くに立っているだけで、全然注意しない。普段なら血の気が多くて生徒から恐れられている体育の林先生も、いつものようにうるさい生徒のところに向かって歩かない。そんな先生たちを見ていると、この授業は内容を重視するというより、授業をした、という事実に価値があるのかなと思った。

 同じ道徳関連の授業でも、歴史背景や体験者の話が詳しく語られる戦争や原爆の授業とは違い、人権の授業は小学校のときから全体的にあいまいに、大事な部分が伏せられたまま進んでいた。人権学習のとき先生たちは、資料集やビデオ教材を生徒に与えたあとは奇妙に静かで、あんまり自分の意見を言わない。

©iStock.com

 生徒たちも居心地の悪さを感じながらも深くは追求せず、ただ時間が過ぎて授業が終わるのを待ち、最後に書く感想には“差別は絶対になくすべきだと思いました”と先生受けしそうな優等生の言葉を連ねた。授業内容と自分が知ってる実態はかけ離れすぎて、いつしかその距離も含めて“そういうもの”になった。

 もし詳しく勉強したい子がいるなら学校より図書館や資料館へ直接足を運んだ方が早いだろう。知らないと教えられ、知りたくなくても教えられるけど、もっと知ろうとすると、そこまで知らなくてもいいと押し返される。

 小学生のとき、クラスの懇親会で、ある生徒のお母さんが泣き出したと噂になった。PTAの保護者たちにも人権教育があって、そのときに自分も当事者だと告白して泣いたらしい。大人が泣き出しながら告白するレベルの問題に、子どもの私たちができることなんて何かあるだろうか。

 町のいたるところにある掟、一本通りが違うだけで厳しく線が引かれ、公然と存在するのにどこかひっそりとして、いくつもの暗黙の了解が網の目のように張り巡らされていた。埋めつくす無数のツタを手でかき分けて、壁に古いひび割れを見つけたとしても、誰に報告できるわけもない。気軽に投げた石がすぐ側の近しい人の額に当たり、血が流れないとも限らない。