毎年、暮れになると、あちこちで《第九》、ベートーヴェンの交響曲第九番が演奏される。ぼくの父はクラシック音楽とは無縁だったが、晩年、市民合唱団に入り、《第九》を歌うのを生きがいにしていた。
特に今年はベートーヴェン生誕250年で、春からさまざまな公演が予定されていた。亡父のように、暮れに《第九》を歌うのを楽しみにしていた人も多いだろう。だが、コロナ禍により多くが中止になった。
本書の副題は「《第九》が歌えなくなった日」。だが、《第九》が歌えなくて残念だとか、音楽ホールも演奏家も大変だよねという内容ではない。書名を注意深く読む。「音楽産業の危機」ではなく、「音楽の危機」。コロナ禍が音楽そのものの変容を迫っていること、その変容はすでにコロナ以前からきざしがあったこと、そしてコロナ以降のありかたを見通す。コロナ禍と文化についての、極めてすぐれた考察である。
ライブが無理なら配信があるさ、という人もいるだろう。実際、クラシック、ポピュラー問わず、配信による公演はずいぶん増えた。だが著者は生の音楽と録音・配信による音楽は根本的に違うと指摘する。その場の「空気」や「気配」は生でしか味わえず、しかも音楽の本質にかかわる。コロナが強いる他者との「距離」は、この「空気」や「気配」を致命的に損なう。想像してみるといい、オーケストラも合唱団も2メートル間隔で並ぶ無観客の《第九》を。コロナの時代に《第九》は成立しない。
著者の考察が素晴らしいのはその先だ。《第九》に象徴される近代のクラシック音楽とは何か。それは、産業革命や資本主義、民主主義がもたらしたものであり、「自由・平等・友愛」というフランス革命の夢が刻印されている。苦難の果てには勝利が待っているという「右肩上がりの時間モデル」を信じて疑わない近代的思考が根底にある。つまり、歌えなくなった《第九》は、近代の終わりを示しているのだ。
《第九》が歌えない時代の音楽はどこにあるのか。著者は「ズレ」に注目する。最後には勝利が待っているという時間モデルとは別のあり方だ。補助線として著者が紹介するのは、半世紀前、ベトナム戦争のころに作られた前衛音楽。T・ライリーやF・ジェフスキーらの作品には近代的な枠組みを超えようとする意志がある。
著者はいう。〈芸術において/芸術によって「コロナに勝つ」ということがもしありうるとするなら、それは「こういうことでも起きなければ考えるはずもなかったような音楽のありよう」を実現すること以外ではないはずだと、わたしは考える〉
これはクラシック音楽だけでなく、ポピュラー音楽でも舞踊でも演劇でも、そして美術や文学はもちろん、すべての文化について当てはまることだ。
おかだあけお/1960年、京都府生まれ。大阪大学大学院博士課程単位取得退学、大阪大学文学部助手、神戸大学発達科学部助教授を経て、現在、京都大学人文科学研究所教授。文学博士。近著に『よみがえる天才3 モーツァルト』(ちくまプリマー新書)。
ながえあきら/1958年、北海道生まれ。ライター。近著に『私は本屋が好きでした あふれるヘイト本、つくって売るまでの舞台裏』。