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静けさの中の閃光「西から太陽が昇った」

 記述は水爆実験の瞬間に入っていく。

 夜明け前の静かな洋上に、稲妻のような大きな閃光がサアーッと流れるように走った。午前1時から始まった投縄作業がついいましがた終わり、一区切りついた体を船室の戸口に近いカイコ棚のベッドに横たえて、開けっ放しになっている暗い外をぼんやり眺めていた。午前3時30分、船はエンジンを止め、かすかな風に流れを任せている。さっきまでの目の回るような忙しい作業と騒音がうそのような静けさだ。閃光はその時である。光は、空も海も船も真っ黄色に包んでしまった。はじかれたように立ち上がり、外へ飛び出した。きょろきょろと見回したが、どこがどうなっているのか見当がつかない。左の空から右の空まで全部黄色に染まって、まるでこの世のものとは思えない。

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 その時のことを、広田重道「第五福竜丸」は「突然誰かが叫んだ。『太陽が上がったゾ!』。恐怖に震える声だった」「『西から太陽が昇った』。これがみんなの実感だった」と記している。「死の灰を背負って」によれば、デッキには見崎漁労長や船長らがいて左舷をじっと見ていた。

 一段と鮮明な黄白色が大きな傘状になって、水平線の彼方で不気味な光を放っている。「あそこだ」「なんだ、あれは」。声にならない。心の中で叫んだ。今にも、どでかい太陽が昇ってきそうな感じだ。

 光は微妙に色を変えた。黄白色から黄色、オレンジがかって、かすかな紫色が加わり、そして赤く変わっていった。それも、少しずつ少しずつゆっくりと。誰もが無言で息をころし、立ちすくんだまま、目はその光景に吸い付けられるように、じっと成り行きを見守っていた。1954(昭和29)年3月1日午前4時12分。南太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁北東約90マイル(約170キロ)、北緯11度63分、東経166度58分。

 乗組員は慌てて延縄を引き揚げ、朝食をとった。「そのときだった。『ドドドドド!』。足元から突き上げてくる轟音は、海ごと船を揺さぶった」。縄を揚げる作業に戻ると、久保山無線長(「局長」と呼ばれていた)の大きな声がした。

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「おうい、みんな聞いてくれ。いまあったことは焼津にゃ知らせない。だから、もし船でも飛行機でも見えたら、すぐに教えてくれよ」。下のデッキで働いている俺たちに向かってそう言った。俺にはその意味がとっさに分からなかった。無線を打つか打つまいか、局長は迷っていたようだ。もし見えたら、その時点ですぐに打とうということらしい。局長は考えていた。無線を使ったために自分たちのいまいる場所を察知されたら捕まるかもしれない。最悪の場合は消されてしまう恐れもある。“実験区域内でスパイ行為をしていた”などと報告されたらそれまでだ。遠い海での出来事、沈んでしまえば、証拠も何もみんななくなってしまう。戦後9年といっても、あの太平洋戦争の記憶は誰の胸にもまだ残っていた。こちらも「鬼畜米英」の教育を徹底的にたたき込まれていたから、全て相手を悪い方に考え、信用するわけにはいかない。とにかく見つからないうちに、ということだった(「死の灰を背負って」)。

久保山愛吉さんの「絶筆」(「中央公論」1954年11月号より)

 久保山無線長は「中央公論」1954年11月号掲載の「絶筆 死の床にて」という手記で、2月27日に「虫が知らせたのか、私は見崎漁労長、筒井船長に『終戦後も原爆実験はやっているのだから、禁止区域には接近しない方がいいだろう』と注意した」と書いている。彼は戦争中、海軍に徴用されていたという。戦争中の感覚が体に染みついていたのだろう。