全ての核兵器を違法とする核兵器禁止条約が今年1月に発効。核廃絶に一歩踏み出したとされる一方、アメリカの「核の傘」の下にあることを理由に、日本政府が署名を拒否していることに被爆者らからは強い批判が出ている。

 広島、長崎と2度被爆した日本だが、それから76年、どれだけの日本人が核兵器の恐ろしさを感じているだろうか。いまから67年前の1954年の春、静岡県のカツオ・マグロ漁船が南太平洋ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験に伴う“死の灰”を浴び、被爆した乗組員の1人が死亡。放射能に汚染された“原爆マグロ”や“原爆雨”などによる健康被害に多くの国民がパニックに陥った。当時は広島、長崎の惨害が十分には知られておらず、この事件の時期は、日本人が最も核の恐怖を身近に感じた時だったといえる。

 船名は正式には船体にも書かれている通り「第五福龍丸」で、その表記の資料や報道も多いが、当事者や団体も「第五福竜丸」と表記しているのでそれに従う。今回も差別語が登場する。

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「航海は最初からおかしかった」

 1954(昭和29)年1月22日午前11時、「第五福竜丸」は母港の静岡県・焼津港を出港した。140トンの木造漁船。1947年に神奈川県・三崎港所属の漁船として和歌山県で建造され、別の船名で操業していたが1953年、譲渡されて第五福竜丸に。“改名”後、5回目の航海だった。

第五福竜丸の航海と被災位置(「写真でたどる第五福竜丸」より)

 出航直前、ベテランの甲板長ら5人が船を去り、乗組員が入れ替わった。船に乗り込んだのは23人。久保山愛吉・無線長(39)を最年長に30代が3人。ほかは、10代3人を除いて、船長も、操業の全責任を持つ漁労長(船頭と呼ばれていた)も20代で、平均年齢25歳の若いメンバーだった。

「考えてみると、この航海は最初からおかしかった。首をかしげたくなるようなことばかり起こった」。出航の翌日に20歳を迎えた「冷凍士」で現在も健在の大石又七さんは著書「死の灰を背負って」にこう書いている。

第五福竜丸の乗組員(「写真でたどる第五福竜丸」より)

 同書によれば、出航直後にエンジンの予備部品を忘れたのに気づき、近くの港に入って取りに行ったが、出発するとき、船が浅瀬に乗り上げた。沖に出た時に強い低気圧によるしけに遭い転覆寸前に。

 なんとか乗り切った後、船頭の見崎吉男さんが、今回の漁場は「東沖へ行く」と乗組員に告げた。前回の航海で隣の漁船が東沖で収穫したメバチマグロには高値がついていたからだった。

 第五福竜丸は針路を変えミッドウエー方面へ。2月7日に漁場に到着。延縄を下したが「期待したメバチマグロはまるでだめ。全然かかってこない」。そのうち縄が切れ、延縄の半分以上が流された。予備の古縄を加えて操業再開。「漁場はマーシャル諸島方面へと、操業しながらだんだんに南下していった」。

 それでも不漁の連続。「そして14回目の投縄。3月1日、運命の日がやってきた。燃料や食料も限界に近づき、この日が本航海の操業最後の日に決められていた」(同書)。