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「ピカドンに遭って、みんなヤケドをしているそうよ…」

「読売新聞百年史」にはスクープのいきさつが書かれている。

 事件をキャッチした問題の昭和29年3月15日、静岡支局焼津通信部員・安部光恭は、島田市に発生した「久子ちゃん殺し事件」(3月10日発生。被告に死刑確定判決が出たが、再審無罪となった「島田事件」のこと)を追っていた。島田市には各社とも通信部がないので、焼津通信部員が前夜から島田警察署に詰め掛けていた。その日の夕刻、安部に電話の呼び出しがあった。この事件で安部は「毎日」に犯人のモンタージュ写真を抜かれていた。電話はきっと、静岡支局長・倉持武雄からのお目玉と覚悟しながら、重い気持ちで受話器を手にした。「第五福竜丸がピカドンに遭って14日に帰って来たけれど、みんなヤケドをしているそうよ……」。せわしげに話す電話の主は、支局長ではなくて、焼津の下宿のおばさん、小林みさだった。安部は、おばさんの声を確かめるように受話器を取り直した。

「福竜」の元船主というおばさんの親類が知らせてくれたものだった。

「すぐ帰ります」。受話器を置くと安部は「広島、長崎に次いで日本人の3度目の被爆だ。これはでかいぞ」と思うと、早鐘のように高鳴る胸の鼓動を感じた。

 安部は直ちに自動車で焼津へ戻った。途中で「福竜」の所属会社・富士水産を訪ねて、顔見知りの渡辺総務部長から航海日誌を借り出すのに成功した。

 被災の模様を聞くために船長・筒井勲(正しくは久吉)、無線長・久保山愛吉、漁労長・見崎進(正しくは吉男)ら3人の家を訪ねた。3人は「病院で診断を受けたが、みんな健康体を言われた」と答えるほかは口をつぐんで多くを語ろうとしなかった。

 安部は次に乗組員が健康診断を受けた焼津協立病院を訪ねた。既に医師は帰宅した後だった、が、東京の病院へ2人の患者を送ったことを突き止めた。支局へ第一報を送ったのは午後7時46分だった。

1954年8月6日、マイクで家族に語り掛ける久保山愛吉さん(「写真でたどる第五福竜丸」より)

 その読売には背景があった。「読売新聞八十年史」は「ビキニ水爆被災の大スクープ」の見出しでこう書いている。「この大スクープを勝ち得た背景には、この年の元日から社会面に連載した『ついに太陽をとらえた』があったことを忘れてはならない」。

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 この年に読売社主に復帰する正力松太郎は原子力平和利用に強い関心を持っており、事件の翌年、衆議院議員になり、のち初代原子力委員長、初代科学技術庁長官を務める。「ついに太陽をとらえた」は「特に、1954年こそ、世界的な『原子力の年』と考えた本社は、この難解にして食いつきにくいものと思われている『原子物理学』をいかに平明に、かつ興味深く読者に理解させるかが新聞の使命として大きな役割であると考えた。本社が周到な準備のもとに約1カ月にわたって連載した啓発的解説」(同書)記事だった。

 3月15日夜の東京本社は「原爆にやられた原稿が入った」の静岡支局からの第一報を知らせる速記者の声にざわめいた。9版の締め切りが過ぎていたが、青森県野辺地駅での米軍ジェット機墜落事故をトップに扱うため、整理部は現地からの電送写真を待っていた。そこへビキニ被災の第一報であった。とりあえず3段見出しで9版の一部を差し替えた。やがて第一報のコピーが地方部から社会部へ回ってきた。その夜の社会部デスクは幸運にも「ついに太陽……」の連載を担当した次長・辻本芳雄で、そのグループの一員だった村尾清一が夜勤で居合わせた(「読売新聞百年史」)。