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聞きつけた「妙な患者」のうわさ

 同書によれば、村尾記者は同僚記者とカメラマンを伴って東大付属病院へ駆けつけた。「その時は、上京したという被災者の名前も入院先も分かっていなかった。東大付属病院に目星をつけたのも“太陽グループ”の第六感からだった」。

 病院内を回ったが、何もてがかりがなかった。引き揚げようとしたときに、同僚記者が清水外科に妙な患者がいると小耳にはさんだ。看護婦をくどいて名簿を見せてもらうと「焼津、増田三次郎、山本忠司」という名前があった。

 当直医師に頼んで面会を求めたが、許可してくれそうにない。その間に「村尾は清水外科の病室をのぞいて歩いた。1階から2階へ。『増田さん、山本さん』と連呼しながら3階へたどり着いたとき、一室から『ハイ』の応答があった。それが増田三次郎だった」(同書)。

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 佐野眞一「巨怪伝」も「この時代、どこの新聞社も放射能についての知識をほとんど持ち合わせていなかった。それが読売に限って、焼津通信部員からの一報だけでピンときたのは、この年の元旦から『ついに太陽をとらえた』という原子力開発の解説記事を連載していたためだった」と書いている。

米ソ核開発競争が進んだ1950年代

水爆の実体の報道もアメリカ発だった(毎日)

 読売の特ダネは、アメリカの核実験が周知の事実だったように書いているが、多くの日本国民にとってはそうではなかっただろう。同紙の3月2日付夕刊は1面2段で【ワシントン特電1日発】で次のような2本の記事を載せている。

【AFP】アメリカ原子力委員会のストローズ委員長は、第7合同機動部隊がマーシャル群島にある原子力委員会の太平洋実験場で原子力装置を爆発させたと1日発表した。この爆発は一連の実験の最初のものである。

【INS】米政府当局はある種の“原子装置”の実験がマーシャル群島で行われたと1日、簡単な発表を行ったが、その直後、超強力の水爆“地獄爆弾”が爆発されたのだという推測が行われている。原子力委員会及び海空両軍当局は、厳しい口止めをされていると語ったが、完成された水爆が実験されたとみてよいようである。

©iStock.com

“地獄爆弾”とはすさまじいが、16日の特ダネがこの記事を参照していたことは間違いない。「水爆か」という見出しにも根拠があったわけだ。

 この実験は当時のアメリカとソ連(現ロシア)の核開発競争をもろに反映していた。広島と長崎に原爆を落としたアメリカは、第2次世界大戦後も原爆研究と実験を続行。東西冷戦のさなか、対抗したソ連は1949年9月に原爆を所有した。

 そこでアメリカはさらに威力の強い水爆の開発を開始。1952年11月、初の水爆実験を実施した。しかし、ソ連も1953年8月に水爆実験に成功。「“イタチごっこ”が始まった」(庄野直美編著「ヒロシマは昔話か」)。両国ともまだ実用段階ではなく、本格的な実用実験として計画されたのが、ビキニ環礁での「ブラボー」と呼ばれた一連の水爆実験だった。