温故知新。著書などにサインをする際に必ず入れることにしている、言わば座右の銘みたいな言葉である。
かつての作品や出来事を掘り下げる仕事柄、どうしても視線は過去に向きがちだ。その先にあるのは、「昔はよかった」という考え。
何もかも新しくすれば良いとは思わないが、「昔」にこだわり過ぎるのは危険だ。
現代を生きる身には、「昔」に囚われるのはよくない。新しい発想、技術、表現、そして価値観。それらと真剣に向き合い、取り入れるべきは取り入れていかないと、「今」の読者に刺さるような文章は書けないと思うからだ。
そして何より、「昔」を絶対視することは、その「昔」の映画を作ってきた人たちへの冒涜に他ならない。というのも、優れた映画の作り手たちは絶えず、その時その時の「今」と対峙し、新しい地平を切り開いてきたからだ。
それは表現手段についてだけではない。物語の中でも、作り手たちはそうした訴えかけをしてきた。「新」をないがしろにすると、どうなるか。
今回取り上げる『ふんどし医者』は、まさにそんな一本。
舞台は江戸末期の島田宿。医師の慶斎(森繁久彌)は当時では最先端の蘭学を修めた名医だったが、金儲けには興味はなく貧しい人々のために医療を施していた。
その妻・いく(原節子)は博打に目がなく、慶斎の着物までカタにしていた。そのため慶斎は着る服がなく、ふんどし一丁で診察することに。
物語序盤は、そんな慶斎夫婦を中心とした宿場の人々の様子が温かく描かれる。一見しとやかな原節子がそのままのテンションで博打にハマり込んでいる様も愉快で、森繁らしい人情喜劇が展開される。
それが後半、明治時代になって展開は一転する。
慶斎は少年の腹痛に対して「食あたり」と診察をする。最新の医療を学んできた若い弟子(夏木陽介)はチフスを疑うが、慶斎は耳を貸さない。結果は慶斎の誤診だった。感染は拡大。感染症治療に無理解な住民たちは暴徒と化して、診療所に襲いかかる。
慶斎は人々のためを想い、あえて田舎の町医者であり続けた。が、そのために明治維新以降に日進月歩となった医療の知識を得ることができず、立ち遅れてしまったのだ。それでも、自身の経験則を譲ることができない――。
先端にいたはずの人間が、いつの間にか時代に置き去りになってしまう。時の流れはどこまでも残酷で、留まる者を容赦なく飲み込む。
温故知新。言葉にするのは易いが、それを続けていくのは易くない。そのことを痛感させられる作品である。