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――奨励会は厳しくて、簡単には昇級できなかったのでしょうか。

八代 もちろんどんどん昇級していく人もいて、1年前に入った勇気君は3級だったか、かなり上にいました。誰がどんな大会で活躍したか疎い僕でも、勇気君が小4で小学生名人になって奨励会入りし奨励会仲間から天才と呼ばれているのは知っていました。当時の勇気君は、小5でまだ小さくて「小さいのにこんなに強い子がいるんだ」と驚き、刺激になりました。初めて彼と話したのは、奨励会入会からずいぶん経ってからだと思います。

 自分は6級のまま負けが込み、Bがついて7級落ちの危機を迎えたくらいで、こんなはずではなかったと。小さな支部の道場では、奨励会員とレベルの合う相手がおらず、スパーリング不足に陥っていたことも影響したと思います。そんな僕を見て、青野先生は蒲田将棋クラブ(※東京・蒲田にあり、プロや奨励会員、アマ強豪が集まる将棋道場)に行くことを勧めてくれました。蒲田に行くようになってすぐに5級に昇級しました。奨励会入りから1年後のことです。

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――研修会はとても楽しかったとおっしゃっていましたが、奨励会では厳しさも味わったということでしょうか。

八代 そうですね。将棋の1勝の重みも、研修会と奨励会では違います。研修会時代は子どもだから許されたことも、奨励会では許されない。幹事の中座真七段にはよく怒られました。昼のお弁当を食べながら将棋を指していたら、マナーがなってないと厳しく注意されたのを覚えています。

 

みんなが平等に強くなるものではなかった奨励会

――ところで、今、仲良しと言われている高見七段や三枚堂七段とは、どんなきっかけで仲良くなったのでしょうか。

八代 特別なきっかけはなかったような気がします。奨励会入会当初から高見君や三枚堂君と仲が良かったわけではありません。最初は研修会から同時期の奨励会試験で入会した同じ歳の仲間と仲良くしていました。奨励会が終わって一緒に帰って、少ないお小遣いでタコ焼きを食べたり、そんな他愛のないことが楽しかったことをよく覚えています。でも、こちらが昇級して級が違ってくると、終わる時間も違ってだんだん一緒に帰らなくなる。そして1人、2人と退会していきました。同じ年の奨励会試験に合格したのは関東で15人くらいいたと記憶していますが、プロになったのは僕と1学年下の青嶋未来六段だけです。奨励会はみんな仲良く平等に強くなるものではない。友達と離れても寂しいとか言っていられる場所ではないことも分かってきました。

 2級のときに高見、三枚堂、自分が同級に並び、同じ学年ということで相当意識し、負けたくないと思いました。そして有段になると、例会で対戦するのは20代になっている先輩も多かった。そんな先輩たちがちょっと怖くて、中学生で有段者になり、そんな中に入った高見君と僕が仲良くなった感じですね。