敗戦から数年間は1948年をピークに犯罪が多発した。戦争で国土が荒廃し、生活が崩壊。民心も殺伐としていた。殺人、強盗、窃盗、暴行、放火、詐欺、恐喝……。
その中で「アプレ犯罪」と呼ばれるいくつかの事件が人々に大きな衝撃を与える。それまでの価値観からは懸け離れた無軌道で短絡的、刹那的な一連の犯罪だ。もちろん1つ1つの事件は動機も犯行の態様も違うが、戦争が背後に大きな影を投げかけていることが共通した特徴だ。
今回のメッカ殺人事件は1953(昭和28)年7月に起きた最も遅い時期のアプレ犯罪。特徴は国民に戦場の記憶を呼び起こすような血なまぐささだろう。今回も差別語・不快語が登場する。
「天井から滴る血 宵の新橋、バーで殺人」
1953年7月28日付朝刊の事件第一報の見出しは各新聞で似通っている。「バーの天井から血潮 知らぬ男の死体 中三階のフトン入れに」(朝日)、「客席に血がポタポタ 酒場の天井に死体 姿を消した謎の使用人」(毎日)、「天井から滴(したた)る血 宵の新橋、バーで殺人」(読売)……。
細かい事実関係は異なるが、「東京の盛り場のバーでまだ宵の口に、酒を飲んでいる客の白い服に血が点々としたたる」というイメージが鮮烈だったためだろう。最もまとまっている読売の記事を見よう。
27日夕7時半ごろ、東京都港区芝新橋1ノ10、バー「メッカ」(経営者・坪井そめさん)の2階で、ビールを飲んでいるお客さんの肩に血が糸を引いてしたたっているのを、女給の礼子こと富田幸枝さん(21)が見つけ大騒ぎとなった。店内を調べたところ、中3階物置の直径1尺5寸(約45.5センチ)、深さ2尺5寸(約75.8センチ)、ステージにスポットライトを通すための縦穴から両足をはみ出し、頭を下にして殺されている中年の男を発見。驚いて愛宕署に届け出た。警視庁から武田鑑識課長らが現場に急行。捜査を開始した。
被害者は40歳ぐらい、(身長)5尺5寸(約166.7センチ)。中肉で、茶のズボンに白ワイシャツ、革バンド。薄緑色の靴下をはき、サラリーマンふうで顔面を5カ所、頭部を3カ所、鈍器ようのものでめった打ちされたうえ、電気のコードで首を三巻され、絞め殺されていた。現場には刃渡り5寸(約15.2センチ)の短刀が落ちていた。
当初から浮上した容疑者「彼は内気でヒロポン中毒患者といわれ…」
この段階で既に、毎日の見出しにあるように、容疑者が浮上していた。読売の記事は続く。
調べでは、同日夕4時半ごろ、同店の住み込みボーイ近藤清君(20)がそめさんに「店の掃除が終わったから、外出してくる」と断って姿を消しているので、容疑があるのではないかとみて行方を追っている。同君は内気でヒロポン中毒患者といわれ、去年の冬、大阪から上京した男。現場付近は国電(現JR)新橋駅から歩いてわずか1~2分。十仁病院の前の目抜きの繁華街で、通行人数百名が現場をぐるりと取り巻き、夜更けまで大変な騒ぎであった。なお、被害者のワイシャツから「ハヤタ」の縫い取りが発見された。
ヒロポンは覚せい剤のことで「疲労をポンと取る」という意味でそう呼ばれたという。特攻隊員の間で用いられ、戦後しばらくは合法的に国民の間で爆発的に流行した。元警視庁鑑識課長・岩田政義「鑑識捜査三十五年」には、現場の状況がさらに詳しく記されている。それによると、建物は1階が経営者の住居で2階がバー。2階はホールの中央が踊り場になっていて、3面にテーブルとソファが並べられている。ホールの隅にやや扇形にカウンターがめぐらされ、その上方約2メートルのところに中三階の形で広さ約3.3平方メートルのバンド席がある。店には女性もおり、ダンスホールを兼ねたバーのようだ。