「殺して金を奪うだけが目的で、それ以外のことは考えてみもしなかったのでは」
事件の全容が判明したころから、新聞や雑誌で犯行の態様と容疑者たちの心理についてさまざまな感想と論評が繰り広げられた。最も早いのは7月30日付朝日夕刊社会面トップに載った作家、平林たい子の談話か。
「私の女学生ごろだからもう30年も前の事件だが、横浜の金持ちの大学出の青年が2人でやっぱり人を殺した。その時彼らはトランクに死体を入れ、発覚を防ぐため慎重にも新潟県まで列車で運び、信濃川に投げ込んでいる。結局は捕らえられる運命にあったのだが、同じ年ごろの青年の殺人事件でも、今日と昔ではその計画性に大変な差があることを発見する。今度の事件の3人には、殺して金を奪うだけが目的で、おそらくそれ以外のことは考えてみもしなかったのではないか」
週刊朝日1953年11月11日号「社会時評」は「メッカ・ボーイ」という新語を作り出している。刹那的で無計画、大胆だが、どこかあっけらかんとして、幼児的で間が抜けたところがある。それまで当然とされていた規範や倫理を無視している。それらが、この事件も含めた「アプレ犯罪」の特徴であり、自分たちには到底理解できない、という捉え方が主流だ。
「人殺しをして金を奪おうという相談がちょっとした思いつきみたいに簡単に成立しているらしい」
7月31日付朝日1面「天声人語」も事件を取り上げ、「マージャンをやっているうちに、人殺しをして金を奪おうという相談がちょっとした思いつきみたいに簡単に成立しているらしい」「冷酷というか非人情というか、悪い方の典型的なアプレ青年の心理や言動にはゾッとするような怖いものを感じる」など、典型的な受け止め方を示している。
そう考えるのにも一理はあるが、考えてみれば、そうした捉え方は、事件から70年近くたったいまも、若者たちに対する視線に生きている。世代の違いに対する感慨が過剰に表れたきらいがある。当時が現在と違うのは、敗戦による旧来の権力構造とモラルの崩壊の影響が大きかったことだろう。
「天声人語」も最後に「その底に流れているものはニヒルであり虚無である。何か大きなものが抜け落ちている」「これも戦争という魔物の落とし子にほかならない」と書いている。もっとそのことを深く考える必要があったが、メディアは表面的な報道に終始した。
この事件の3人の写真を眺めて「どこかで見た覚えがあるぞ」と思ったのは「太陽族」のことだった。風俗も含めた雰囲気がよく似ている。「太陽族」をアプレ・ゲールの一形態と見た批評もある。石原慎太郎氏の小説「太陽の季節」が芥川賞を受賞して「太陽族」が話題になったのは、「もはや戦後ではない」と言われた1956年。「メッカ事件」の3年後のことだ。正田昭が住んでいたのも「太陽の季節」の舞台と同じ湘南。正田と石原氏は3歳違いだが、この3年は大きい。その違いが戦争との距離であり、そこに「血なまぐささ」があるかないかなのではないか。
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生々しいほどの強烈な事件、それを競い合って報道する新聞・雑誌、狂乱していく社会……。大正から昭和に入るころ、犯罪は現代と比べてひとつひとつが強烈な存在感を放っていました。
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