1ページ目から読む
5/6ページ目

「最近オレの領分を荒らす邪魔者がいるから処分する」

 毎日や東京の写真を見ると、彼もミルキーハットをかぶっている。毎日に載った供述は次のようだった。

 正田は私の勤め先の「メッカ」に1カ月くらい前から3、4回来たので顔見知りになった。今度の犯行は、私は正田の言うままにやったので、正田の動機がどういうものだったかよく知らないが、25日に正田と犯行の打ち合わせをしたとき、正田から「最近オレの領分を荒らす邪魔者がいるから処分する。ただし、殺すつもりはないから心配しないで手伝ってくれ」と言われた。

 

 犯行当日の27日は正午ごろ、正田が被害者博多さんを連れて「メッカ」に来た。私は博多さんとは一面識もなく、このとき初めて顔を知った。まず2階のボックスに案内して話を始めたが、そのうち正田が「便所に行ってくる」と言って席を外し、何も知らずに腰を掛けていた博多さんの後ろからそっと忍び寄り、いきなり電気コードで博多さんの首を絞めた。

 

 私はこの間、見張り役をしていたが、博多さんが死んでしまったので、正田に言われて死体を天井裏に始末するのを手伝った。その後、洗面所で顔を洗っていると、正田が降りてきて「オレはこれから茅ヶ崎に行く」と言って、私に分け前の3万円を渡し、そこで別れたままなので、その後の正田の行方については何も知らない。正田が強奪した金額が40万円もあったことは、その後新聞で見て初めて知り、たった3万円しかくれない正田のやり方がとても悔しかった。

 

 直接の下手人も事件の中心人物も正田だ。

被害者が押し込まれていた「メッカ」の天井裏(「鑑識捜査三十五年」より)

 3万円は現在の約19万円。朝日、毎日、読売、東京とも「正田が首を絞めた」を見出しにとっている。朝日には、近藤が「『よせよせ』と言って止めさせた」という供述も出ているが、自分の役割を軽く見せるウソだった。調べに対し、4日には供述を翻して「自分もイスで殴った」(5日付毎日朝刊見出し)ことを認める。

 その記事によれば、犯行前日の7月26日、正田が相川を連れて「メッカ」を訪ねてきたので、案内して2階を一巡。細部の打ち合わせを行った。この際、相川は被害者役を演じたが、当日は怖くなって現場に来なかった。正田は証券会社勤務時代、被害者と面識があり、「株券を持っている外務省の役人がいるが、金を融通できるか」とウソの商談を持ち掛けて呼び出した。

ADVERTISEMENT

 犯行時、近藤は用意してあった折れたイスの脚で被害者の頭を何度も殴ったという。死体は後で運び出して遺棄するつもりだったが、発見が早くてできなかった。

「金と女でその日を送るセツナ主義者のたどった転落のコース」

 出頭したとき「メッカ事件の近藤」と名乗ったというほど、連日の報道は社会に衝撃を与えていた。8月4日付毎日朝刊は「なぜこんなに騒ぐ?」の見出しで、「ただ金が欲しかった、金―金―金以外のことは考えてもみなかった」という近藤の供述から若者の生態を描いている。

 それによれば、華やかな東京にあこがれて前年暮れ、兵庫県から上京。つてを頼って五反田駅のバーにボーイとして住み込んだ。すぐキャバレーのダンサーと親しくなり、「刺激の強い職場で毎夜脂粉の中に暮らしていた」ことから、得意のダンスを武器に女遊びに熱中するようになり、麻雀にも手を出して身を持ち崩していった。

 3月ごろからはヒロポンを覚え、「メッカ」に移ってからは遊興費とヒロポン代に追われてノドから手が出るほど金が欲しかったという。記事は(1)1カ月足らずの付き合いだった正田のため、わずか3万円で殺人を手伝った(2)自分が勤めている店を犯行現場に選んでいる(3)捕まってから「こんなに早く犯人が割れるとは思わなかった」と話している――ことなどから「見境のないアプレぶり」を示していると指摘。「結局、金と女でその日を送るセツナ主義者のたどった転落のコースでもあったようだ」と締めくくっている。

本来は、第1次世界大戦後にフランスで生まれた新しい文芸運動を指す言葉だったが、日本では太平洋戦争後の世代とその文化を指す流行語となった。漢字で『戦後派』と書いてアプレ・ゲールと振り仮名をふる人もあり、戦前派の価値観と全く違った行動をする戦後の若者たちをこう呼んだ。

 戦後一世を風靡した流行語「アプレ・ゲール」を「別冊一億人の昭和史 昭和史事典」はこう解説する。同事典には「アプレ犯罪」の項目もあり、「敗戦後の青少年の無軌道ぶりが話題になり、彼らの犯罪をアプレ・ゲール(戦後派)の犯罪と呼んだ」と定義づけている。その例として挙げられるのが、このシリーズでも取り上げる「光クラブ事件」(1949年)、「オーミステーク事件」(1950年)など。時期的にほぼ最後になるのがこの「メッカ殺人事件」だ。