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特集観る将棋、読む将棋

2021/08/18

「将棋世界」2020年6月号で糸谷哲郎八段は豊島をこう評している。

「彼はジェネラリストだと思うんですよ。どんな戦型でも指せるし、勝てる。将棋って独創派と研究派ってあって、豊島さんはまちがいなく研究派なんです。誤解を抱かせると申し訳ないですけど、この戦法で勝ちたいとか、そういうこだわりはあまりないと思う。逆にそういうものは余計なものだと捉えているかもしれないですね。勝つためにはどんなことでも努力するタイプだと思います」

孤独の道を選ぶ

 近年の豊島は、対人の研究会を一切していなかったことで知られている。しかし、もともとは人付き合いが良く、研究会も大好きだった。私が最初に彼に会ったのは棋士になりたての頃で、関西将棋会館の記者室で10秒将棋を指していた。次々と先輩棋士達を吹っ飛ばしていて、指すのが好きで好きでたまらない、という表情をしていた。同じ部屋で見ていた畠山鎮八段に「彼強すぎませんか?」と聞くと、畠山は「関西の若手はもっともっと強くなりますよ」とニヤッと笑った。

 また、糸谷、稲葉陽八段、宮本広志五段と4人でマンスリーマンションを借りて、朝8時に起きて夜11時に寝るまでずっと将棋三昧の生活を1ヶ月続けたこともあった。

 宮本はABEMAで「豊島さんが深夜に順位戦終わって帰ってきて、僕寝てるのにすごいハイテンションで『ちょっと将棋見てやー』って叩き起こされたんです。私は『勘弁して、もう無理です、明日で』って言って……」とそのころのエピソードを語っている。

あの大地震の日

 2011年、豊島は20歳で初めてタイトル戦に登場する。当時まだC級1組の五段だったが、王将リーグで渡辺明竜王、羽生名人(いずれも当時)、佐藤康光九段といったトップ棋士を次々と破り、久保王将への挑戦権を掴んだのだ。順位戦とタイトル戦の日程がぶつかり、順位戦の最終戦が3月7日から11日に変更になった。最終戦の対戦相手は私だった。対局開始前に、豊島は日程が変更になったことへのお詫びをして、ていねいに頭をさげた。とても礼儀正しいなあ、矢倉で戦いたいなと初手角道を開けたら、2手目△3二飛(!)から三間飛車にされて、事前研究がすべて吹っ飛んだ。

 そして、あの大地震が起きた。東京将棋会館も揺れに揺れた。この日はB級1組の最終戦も行われていたが、皆対局どころではないという表情だった。14時50分から18時まで対局は中断されたが、その後は再開された(囲碁界はタイトル戦も含め公式戦が全部中止になった)。

 こういう異常事態では、普段通りに戦うのは難しかったが、彼はまったく変わらなかった。棋士に必要な「平常心」を若いときから身に着けていたのだ。中断中は部屋に戻って(その当時は5階に宿泊室があった)寝ていたそうだ。序盤はまずまずだったが、日和って攻めずに受けの手を指したら、瞬時に大駒をさばかれてしまった。最後に絶妙の歩打ちで止めを刺され、私はC1を陥落した。

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