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――加藤先生が最初に注目されたのは、5年生の冬に小学館学年誌杯の大会でグランドチャンピオンになった時ではないでしょうか。小学生メジャー大会で女の子が優勝ということで「将棋世界」にカラー写真が掲載されました。

加藤 そうですね。小学館の大会は各県の代表が争う形ではありませんが、強い子が集まっていました。最初に学年別にトーナメント戦をして、優勝と準優勝計12人のトーナメントでグランドチャンピオンを決める形でした。記憶違いでなければ、5年生の部でずっと負けていた長谷部君(浩平四段)に初めて勝って優勝し、勢いに乗ってグランドチャンピオン決勝では6年生(後に奨励会1級)に勝って総合優勝でき、すごく自信になりました。

女流棋士と将来を決めてしまうのは、まだ早すぎる

――小6の夏休みには白瀧あゆみ杯にアマとして出場し、貞升南女流二段(当時2級)に勝って、「小学生アマが女流プロを破る」と話題になったこともありました。

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加藤 もう15年前だから言ってもいいかな。お世話になっていた棋士から貞升さんの棋譜をいただいたのです。当時、女流棋士の棋譜を見られる機会は少なかったのでありがたかったです。それをもとに棒銀でどうすれば破れるか考え、父と研究もしました。東急将棋まつりの中で行われ、会場はデパート。勝ったご褒美に母からメゾピアノのお財布を買ってもらって嬉しかったです。

――その小6の夏に奨励会試験に合格されますね。女流育成会(女流版の奨励会三段リーグのような会で、総当たり戦で1位になるなど一定の成績を収めると女流棋士になることができた。2009年に廃止され、女流棋士資格取得の役割は研修会に移行した)に入れば短期間で女流棋士になれたと思います。その道は考えなかったのでしょうか。「将棋世界」に掲載されたお母様のお話では、「女流棋士と将来を決めてしまうのは、まだ早すぎる。奨励会なら退会後に別の道を選ぶケースもあって道が広いと考えた」ということでした。

加藤 私自身は、母ほど将来のことを考えていたわけではありません。女性大会には出ておらず、いつも男の子と競っていました。強い男の子は奨励会に入るし、自分も入りたいというのは自然なことでした。ただ「女流棋士にならないの?」とはよく言われました。奨励会に入るからには四段を目指すと思って、父とも四段になると約束しました。奨励会を「強い女流棋士になるための勉強の場」と考えたことはありません。

両親のもとを離れ、東京の祖父母の家に

――奨励会には加藤先生より2年前に伊藤沙恵女流三段が入会していました。伊藤女流とは入会前から知り合いだったのでしょうか。

加藤 沙恵ちゃんは1学年上で、小5で小学生名人戦全国3位になるなど、大会で活躍する有名な女の子でした。小4くらいでリコーの将棋合宿(※企業将棋部として最強と言われ、強い子どもや女流棋士も参加する合宿を行っていた)で初めて指してもらったのを覚えています。研修会員だった小5のとき、奨励会員の沙恵ちゃんが指導に来て「桃子ちゃん奨励会に入って。今は女の子1人で話す人も少なくて」と言われました。憧れの沙恵ちゃんに誘われてすごく嬉しく、奨励会に入りたい気持ちが強くなりました。

――6年生で奨励会に入りました。生活はどのように変わりましたか。

加藤 東京のほうが蒲田など強い人が集まる将棋道場もありますし、強くなる環境が整っているので、両親のもとを離れ、東京の祖父母の家に引っ越しました。