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手帳の冒頭に書きつけられた「悲願千人斬」

 さらに毎日には「不逞の文字 『悲願千人斬』 樋口の“秘密手帳”發(発=あば)く」の記事が。松平子爵令嬢誘拐で樋口を取り調べた警視庁警部補の“樋口解剖”として次のように書いている。

 樋口が持っていた手帳には、昭和18(1943)年以来、毎月1人ずつ誘拐した、14歳から12歳までの14名の良家の美貌の少女の住所氏名と犯行記録が書きつけてあり、取り調べの際は頑強に否定したが、その手帳の冒頭には『悲願千人斬』という文字が書きつけられていた。

 

 なお当時誘拐された少女たちはいずれも、家に送り帰された後も犯人を「いいお兄さん」と言っていた事実があり、少女を手なずける異常な手腕があったらしく、某子爵令嬢を誘拐した際も、江ノ島に連れ出していろいろの玩具を買ってやり、疲れたと言えば背負ってやり、山林中に泊まった夜は、一晩中ひざに抱き上げて蚊を追ってやっていたといわれ、犯人は少女を誘拐しては連れ回すことに異常な興味を持つ男であった。

「“少女の敵”樋口御用」

 当時は夕刊紙だった東京は9月24日付(23日発行)2面トップで「“少女の敵”樋口御用」の見出しを付けているが、感じは少し違うようだ。そんな樋口の足どりは各紙報じているが、最も詳しい読売を見る。

 

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▽9月17日 住友家長女を連れ出すや、同日上京。上野駅付近で一泊

▽18日 千葉県に入り、津田沼に宿泊

▽19日 稲毛に宿泊

▽20日 再び東京に舞い戻り、中央線篠ノ井経由で松本に出て、同市に一泊

▽21日 午後3時30分、松本発で海外引き揚げ者の群れに紛れ込んで同夜9時5分、名古屋に下車し、駅頭で引き揚げ者の世話に当たっていた海外同胞救出学生同盟の学生たちに案内され、駅裏の海外引揚者宿泊所名古屋寮で北海道庁発行の引揚証明書を示して宿泊。宿泊名簿には本籍地・樺太豊原市西一条南九丁目21。海外住所・朝鮮慶尚南道釜山市宝永町900。現住所・京都府久世郡御牧村字島田、本田金次郎(22)、妹清子(14)と匿名して記載し、「私は朝鮮から5月6日に博多に引き揚げてきた。北海道へ行ってみたが、親兄弟の消息は不明なので帰ってきた。これから金沢の叔父のところへ訪ねるつもりです」と語っていた

▽22日 朝10時ごろ、同宿の女性にリュックサックを預け、「名古屋駅裏の闇市に買い物に行ってくる」と住友家長女を連れて外出。お昼ごろ、いったん戻ってきて夕刻まで部屋に閉じこもっていた。7時ごろ、寮を出ると直ちに中央線列車に乗り込み、中津川駅に9時30分着。さらに北恵那鉄道(1978年廃線)に乗り換え、終点駅の付知町に下車。夜10時ごろ、同町、雑貨商・小倉信一さん方に現れて同家に宿を求めたものである

 新聞各紙は住友令嬢と樋口の写真を掲載しているが、読売に載った「捕った樋口 中津川署にて」では、樋口は歯を見せて笑っている。とても「誘拐犯」とは思えないような表情だ。

毎日に掲載された樋口と清水家次女の「記念写真」

 毎日には、樋口と清水家次女が一緒に写った「金沢発」の写真がある。説明は「兼六公園で“記念撮影” 清水家次女を妹に仕立てて転々と歩いた樋口が 青森駅で知り合った金沢市・西村常市氏に遊びに来いと言われるまま、9月7日ごろ、同家を訪れ2泊した時、兼六公園で記念撮影したもので、今回全国に指名手配された樋口の手配写真も実はこれが用いられている」。右側の樋口は軍服に戦闘帽、左側の清水家次女は白っぽい質素なワンピース姿。復員兵と戦災孤児が街にあふれていた敗戦直後、こうした「兄妹」はどこにでもいたというような服装だ。