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「変態的ロマンチシズム」か「自己犠牲」か

 被害者の住友家長女はその後、ドイツの音楽学校への留学などを経て東大教授と結婚。2児の母となったが、事件について語ることはなかった。樋口は1946年10月24日の横浜地裁での初公判で、清水家次女の誘拐は結婚が目的であり、住友令嬢は勉強するための金と清水家次女との再会、結婚の資金を作るための身代金目的だったと供述した。実際にも要求したようだが、はっきりしない。

判決は懲役10年だったが、大赦で減刑された(朝日)

 10月31日の判決は懲役10年だったが、憲法公布による大赦で減刑され、1954年1月に仮釈放。ところが1959年と1961年の2回、窃盗事件で逮捕された。当時の読売は夕刊の社会面コラムで「『刑の重い誘拐は割に合わない』とドロボウに転向」と書いた。服役を終えた後、結婚。3児をもうけたが、妻子が家を出たため、職を転々としたことが週刊誌で報道された。被害者と加害者は全く異なる道を歩いた。

仮釈放を伝える読売

 手記「私の半生」によれば、樋口は東京の下町の生まれ。生後すぐ役場の書記をしていた父親が死亡。母親が家政婦などをしながら樋口と姉2人を育てた。小学校の高等科を卒業して鉄道会社に就職。東京―沼津間の電気機関車の機関助手に。起こした事件の現場が湘南地域だったのはそのためだった。

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 大人の女性に淡い恋心を抱くこともあったが、「手の届かぬ、はるか彼方のもののように見えるのです」。そのうち、成年女性なら口もきけないような上流家庭の子女と、子どものうちなら親しくなれることを発見したという。

 日本の精神分析の草分けのひとり、大槻憲二は「性教育無用論 寝ている子は寝かせておけ」(1957年)の中で、樋口の犯行の主要動機は「誘拐によって彼自身の魅力を実証し、そのうぬぼれを満足させること」であり、各地を流浪したことは「一所に定住して現実的正常生活中で、成人である妻子を引きまわしていく自信がないので、その代償として、象徴として、自由になりやすい少女たちを旅行中に引き回したにすぎないのである」と分析。樋口の行為は「変態的ロマンチシズム」と評した。

「堕落論」で知られる作家・坂口安吾は1947年出版の「欲望について」の中の「エゴイズム小論」で、樋口のことをこう書いている。

「この事件の犯人は彼の誘拐したあらゆる少女に愛されてゐ(い)るのである。一様に『やさしいお兄さん』であると云ふ(いう)。そしてなぜ愛されてゐるかといふと、この犯人は元来金が欲しかつ(っ)たわけではないので、純一に少女を愛しいたは(わ)つてを(お)り、そのために己(おの)れを犠牲にしてゐる」

「少女に対する犯人の立場は自己犠牲をもつて一貫され、少女の喜びと満足が彼自身の喜びと満足であつたと思はれる」

 この見方は美化しすぎているだろう。樋口が住友令嬢誘拐は金銭目的だったと認めているうえ、一連の少女誘拐の中ではわいせつ行為もしており、性的関心が全くなかったとは考えられない。

 しかし、彼の少女との逃避行にどこか“幸せな旅”に思えてしまう一面があるのはなぜだろうか。鶴見俊輔編著「日本の百年10新しい開国」は事件を取り上げた中で「財閥の家でのかたくるしい暮らしにひきかえて、優しい男性の友だちと自由に日本各地を旅してまわれることは、少女にとってひとつの解放だった」と書いている。

事件解決後、報道用に撮影された「一緒に散歩する住友一家」(「画報現代史 戦後の世界と日本」より)

「引き揚げ者」として世間から決して温かい目では見られず、厄介者としてつまはじきにあった人間。“落日”していく財閥の中で、誘拐されても父が動かない女の子。逃避行が彼らにとって一種「解放」される時間になっていたとすれば、社会のゆがみが生んだ皮肉なひとときといえるのではないだろうか。

【参考文献】
▽「神奈川県警察史 下巻」 神奈川県警察本部 1974年
▽今井忠彦「旅路の涯 誘拐魔樋口の真相」 實話讀切社 1947年
▽「戦後史大事典増補新版」 三省堂 2005年
▽ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて 上」 岩波書店 2001年
▽五十嵐惠邦「敗戦と戦後のあいだで」 筑摩選書 2012年
▽石井光太「浮浪児1945―」 新潮社 2014年
▽鶴見俊輔編著「日本の百年10新しい開国」 ちくま学芸文庫 2008年
▽大槻憲二「性教育無用論 寝ている子は寝かせておけ」 黎明書房 1957年
▽坂口安吾「欲望について」 白桃書房 1947年

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 生々しいほどの強烈な事件、それを競い合って報道する新聞・雑誌、狂乱していく社会……。大正から昭和に入るころ、犯罪は現代と比べてひとつひとつが強烈な存在感を放っていました。

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