苦労して故国に帰った末に、まるで世間からのけ者のように扱われた軍人たち
「戦後史大事典増補新版」などによれば、1945年8月の敗戦で大日本帝国の陸海軍は解体され、まず日本の内地にいた約197万人が同年10月中旬までに復員を終えた。海外には軍人・軍属約353万4000人と、満州(現中国東北部)や南方などに入植した民間人約306万6000人の計約660万人がいた。復員は同年9月にアメリカ軍管理地域から始まり、1946年末までには民間人と合わせて約500万人以上が引き揚げたとされる。
しかし、ソ連によってシベリアに抑留された軍人・軍属らと、満州からの民間人の引き揚げなどは困難を極め、現地や帰国途中で亡くなる人も多かった。日本占領に当たった連合国軍総司令部(GHQ)は海外からの引き揚げ者が持ち帰れる財産を制限。
引き揚げ者の多くは引揚援護局の宿泊施設に数日滞在し、食事や郷里までの旅費(1人100円(現在の約4100円)限度)、衣類などの支給を受けた。引揚証明書をもらって輸送も優先的に行われたという。男性の多くは復員服と呼ばれた軍服。それが街にあふれていた。
しかし、多くの引き揚げ者にとって祖国の風は冷たかった。ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて 上」は書いている。
非常に多数の陸海軍人にとって最もショックだったのは、苦労して故国に帰った末に、まるで世間からのけ者のように扱われたことであった。1946年には、引き揚げ者が洪水のように帰国していたが、そのころまでには、連合国の捕虜たちに対してだけでなく、中国で、東南アジアで、そしてフィリピンで、皇軍が衝撃的なほどの残虐行為をはたらいたという情報が、本土の人々の耳にも次々と流れ込んでいた。その結果、元軍人たちは武運つたなく軍人の使命が果たせなかった人たちであるだけでなく、きっと口には出せないような行為をした人間なのだとみなされる場合が多数あった。知り合いも見知らぬ人も、自分たちを責めるような目で見るという復員軍人の投書は、当時おなじみのものであった。
日本の「内なる他者」になった引き揚げ者たち
たぶん、それだけではない。五十嵐惠邦「敗戦と戦後のあいだで」は述べる。
「大多数の日本人は、戦後日本の再建のプロセスに敗戦直後から参加することによって、自らの日本人のイメージを修復する機会を持ったが、遅れて帰ってきた者たちには、そのような機会が与えられなかった。帰ってきたときには既に、戦争全般だけでなく、復員、引き揚げの体験についての国民的な物語が出来上がっていた」
同書は歴史家の言葉を引用して「引き揚げ者は日本の『内なる他者』として『普通の日本人の引き立て役』となった」と指摘している。
これもたぶんそれだけではない。1945年8月17日に成立した東久邇稔彦内閣は、国民にも敗戦の責任があるとして「一億総懺悔(ざんげ)」を叫んだ。一般国民には不評だったが、多くはひそかにそのことを自覚していたのではなかったか。目の前の暮らしに追われて必死に生きる中で、時間とともに、それを忘れるかうやむやにしようとした。そんな人々にとって、引き揚げ者は戦争の犠牲者であると同時に、戦争の悪夢を呼び起こす“厄介者”だったはずだ。
同情はするし、できる範囲で援助もしたい。でも、長く見つめていたくない。さらには深く考えたくない。そんな存在だったのでは?