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「初めて知った世間は面白かった」

 記者は「深窓のお嬢さんにとって初めて知った世間は案外面白かったらしい」と書いた。

 汽車の中であの人が新聞を読んでいるとき、のぞいたら、私の写真が載っているのでびっくりしました。兄さんが新聞を読んではいけないと言い、私も新聞をのぞいたことを恥ずかしく思いました。18日、千葉でお化粧セットを買ってくれ、20日には松本でリンゴを買ってくれたり、名古屋ではスカートを買ってくれたし、私が退屈すると、人形を作っていろいろと慰めてくれたので寂しくありませんでした。それでも初めての長い旅行で、体が弱いため苦しいこともありましたが、そんな時は非常に親切に介抱してくれました。あの人がそんなに悪い人とは……。

 

 22日の夜でしたか、兄さんが、私たちは警察に追われているから二人で山に入るのだと言いました。不思議でたまりませんでしたが、信ずるお兄さんとならどこまでもついて行くつもりでコックリをしました。

 この間、樋口は令嬢を家に帰し、一人で逃げようと考えたり、「自首」しようとしたりしたらしい。記事は「最後まで優しいお兄さん、樋口を疑わぬ令嬢の姿は考えさせられるものが少なくない」と締めくくっている。まるで7年後に製作されるオードリー・ヘプバーン主演のアメリカ映画「ローマの休日」を思わせる展開。前日の記事とどちらが真実に近いかは明らかだろう。24日の記事は『少女誘拐魔による財閥令嬢連れ去り』という警察の筋書きに合わせて作り上げた記事に思える。

日本最大の財産家だった誘拐被害者の父

 この事件が注目された理由の1つは、ちょうど財閥解体が進行していた時期だったからだ。アメリカは、日本が無謀な戦争を引き起こした原因は非民主主義と軍事力にあったとし、ポツダム宣言の段階から占領期の対日政策の基本的目標を日本の非軍事化と民主化に定めた。GHQは「軍事力の経済的基盤の破壊」という観点から財閥解体の方針を確定。

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財閥解体など、占領軍の初期対日方針を報じた朝日

 1945年9月に米国国務省が発表した「降伏後における米国の初期対日方針」でも「日本の商業及び生産上の大部分を支配してきた産業上及び金融上の大コンビネーション解体の促進」を明記。三井、三菱、住友、安田などの財閥に実行を迫った。

 同年11月4日、日本政府は4大財閥持株会社の自主的解体計画をGHQに提出。11月8日付朝日には「住友本社解散へ」という、前日の発表を受けた2段の記事が載っている。「株式会社住友本社を解散し、住友系各事業の統括機関を廃止する」などの内容。

 当時、住友本社の社長だった誘拐被害者の父、第16代住友吉左衛門友成は2億6500万円(現在の約108億円)の株券を持っていて日本最大の財産家とされていた。

 しかし、栂井義雄「歴史と経営 住友財閥の象徴的君主 吉左衛門友純と友成」(「月刊金融ジャーナル」1978年3月号所収)によれば、吉左衛門本人は事業への意欲は薄く、多くは「総理事」らの「番頭」に任せて、自分は文学的な才能を発揮。「泉幸吉」の名でアララギ派の歌人として知られていた。時には「年々に失業者増す世の中に金はいよいよ片寄りゆくらし」といった歌を詠んで「番頭」たちの顔をしかめさせるような人物だったという。

「住友本社解散へ」を伝える朝日

財閥の“落日”

 そうしたこともあって、財閥解体によるショックは三井、三菱に比べて軽かったといわれる。ただ、そうした動きのさなかに当主の長女が誘拐されたことは財閥に“落日”のイメージを与えたことは間違いない。

 誘拐事件の第一報が載った1946年9月19日付朝日には「脅迫状も来ない 角間で父親の話」という長野発の短い記事が載っている。

「長野県の角間温泉別荘に疎開中の住友吉左衛門氏は語る。『何しろ事件は全然五里霧中で手掛かりがなく、相手から脅迫状も来ていないので、鎌倉へ行ってみても仕方がないから、このままここで事件の推移をみたうえで処置をとるつもりだ』」

 長女は母と妹らと女だけで暮らしていた。家庭的に恵まれていたとはいえなかったのかもしれない。