浮浪児のうち女の子は約2割。なぜなら…
戦争で両親を失った戦災孤児の状況も悲惨だった。1945年9月21日付朝日には「地方長官が親代り 戦災孤児の保護育成」が見出しの2段の記事が載っている。「いわゆる戦災孤児は東京都の983名を筆頭に、新潟の465名、広島の583名、その他全国各戦災都市のそれを加えると大体3500~3600名に達するものと推定され……」。
それは氷山の一角にすぎず、「戦後史大事典増補新版」によれば、1950年時点で戦災孤児と、食糧不足や家庭不和などで家を飛び出した「街頭児」を合わせた「浮浪児」は全国で約4万人。戦災孤児はそのうち2割の約8000人と推定された。
石井光太「浮浪児1945―」によると、浮浪児のうち女の子は約2割。それは、「女の子の方が保護される率が高かった」からだった。男の子がもらい、たかり、「シケモク拾い」、新聞売りなどをしていたのに対し、女の子はグループの中で靴磨きをするケースが多かったが、年齢が上がって売春に追い込まれる子もいたという。
海外から引き揚げた復員兵と、戦災孤児のその妹。樋口と少女は一見そう見える二人として、一夜の宿を提供してもらうなど、世間の同情と戸惑いの中で各地を渡り歩いた。
戦後の「カストリ雑誌」の代表格だった「りべらる」1955年7月号に掲載された樋口の手記「私の半生」によれば、終戦直前の1945年7月、八王子少年刑務所を脱走した後、朝鮮半島に渡って飛行場建設の作業員となり、脱獄囚と気づかれないまま敗戦までを過ごした。彼自身、引き揚げ者だったことになる。その点ではリアリティーがあった。敗戦直後の混乱の時代が樋口を犯罪者として生かし続けたともいえる。
「ただもう怖くて、一刻も早く家に帰り、お母さんの顔を見たいばかりでした」
9月24日付読売には中津川署で語った被害者、住友家長女の談話が載っている。
ただもう怖くて、一刻も早く家に帰り、お母さんの顔を見たいばかりでした。連れ出された時は「あなたは狙われているから、安全な所へ連れて行ってあげます」と言われ、鎌倉から東京、千葉、松本、名古屋と、転々と。生まれて初めてすし詰めの列車に連れ込まれたり、汚い宿屋に泊まらされたりしました。途中2回も逃げ出そうと思いましたが、監視が厳重で逃げ出されず、松本、名古屋で各一泊、藤沢のお母さんのもとへ手紙を出したくらいでした。ゆうべ(22日)、名古屋駅裏の名古屋寮で、いままで着ていた服の上に、緑色の軍隊用シャツと紺の海軍ズボンをはかされて付知に行きました。どこへ行っても朝鮮からの引き揚げ者とうそを言って回り、怖い悪いおじさんがこんなふうで一体どうなるのかと心配しました。けさお巡りさんに連れて行かれたときはホッとしました。もうすぐお母さんが迎えに来てくださると聞き、うれしくてたまりません。
「あなたは悪い人に狙われているから守ってあげるよ」
ところが、翌9月25日付で同じ読売が掲載した「住友家長女が語る誘拐魔との一週間」というインタビュー記事は主見出しからして「やさしいお兄さん」と印象が全く異なる。ほかの見出しも「面白かった世間勉強 生れてはじめて映畫(画)も見物」。
記事は「住友令嬢が見知らぬ樋口のため、なぜあんなに簡単に誘拐されたのか。樋口がかわいがったことは事実だが、誘拐魔と過ごした1週間、旅行の疲れは別として、令嬢がそれほど苦痛を感じなかった、というより、むしろ7日間にわたる樋口との逃避行を楽しんだと思われる節さえあるのはなぜか――」という書き出し。中津川の旅館で記者の質問に次のように答えた。
あの人が「あなたは悪い人に狙われているから守ってあげるよ」と優しく言うのを信じました。あのときも悪い人と思わず、いまでもなんだかそんな気がします。あの人が本多良夫で私が妹のひろ子、なんだかおかしかったが、しまいには本当のお兄さんみたいな気になりました。あの日(9月17日)は鎌倉でご飯を食べると電車で上野まで行き、千葉で二晩宿屋に泊まりました。
千葉で生まれて初めてほんとの映画を見ました。大変面白かったのに、お兄さんは無理に私を連れ出してしまいました。私はうちで幻燈写真を見るほかは映画は見たことはなく、お友達の話を聞いて一度見たいと思っていました。