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忙しすぎて大みそかに対局が組まれた谷川

 歴史に名を残す名棋士ばかりだが、さすがに月間10局を超えると負担も大きいのか、高勝率を挙げるというわけにはいかない。だが、月間12勝1敗というとんでもない成績が残っている。1991年12月の谷川だ。

谷川浩司九段 ©文藝春秋

 当時の谷川は、森下卓九段が挑戦してきた竜王戦七番勝負の防衛戦(12月だけで3勝0敗)を戦うと同時に、当時は年2期制だった棋聖戦五番勝負でも南芳一棋聖(当時)に挑戦し、こちらも2勝0敗。さらに王将リーグでも2勝して(リーグ成績は4勝2敗)、中原誠十六世名人とのプレーオフに持ち込んだ。

 プレーオフが行われたのは、なんと12月31日。いうまでもなく谷川がハードスケジュール過ぎて、この日以外に対局がつけられなかったのである。将棋の公式戦が大みそかに行われたのは前代未聞で、その後もイベントが行われたことはあったが、公式戦の大みそか対局はない。

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 この大みそか対局は王将戦の挑戦権だけでなく、谷川の通算600勝と中原の通算1000勝が同時に掛かっていたという意味でも大一番だった。結果は谷川が勝って王将挑戦を決めたが、「大みそかに取材に来る羽目になるとは……」とボヤいていた方が多かったらしいというのは、筆者が先輩記者に聞いた話である。

月間の対局数ではさらに上が

 谷川の月間12勝は、羽生の年間89局68勝に匹敵するほどの不滅の記録と言えそうだが、月間の対局数ではさらに上がいる。1975年12月の大山康晴十五世名人だ。なんと15局(9勝6敗)も対局がついているのである。そのうちの1局は大山の不戦勝だが、対局が予定されていたことには違いない。

大山康晴十五世名人 ©文藝春秋

 中でも12月9日がすさまじい。この日は午前中に東京の芝公園スタジオで行われていた早指し選手権で真部一男四段(当時)を破ると、午後には赤坂のホテルオークラに移って名将戦決勝三番勝負の第3局を中原名人と戦っているのである。さすがに対中原戦は敗れているが、早指し選手権の対局開始が午前10時37分で、終局が午前11時40分。そして名将戦の対局開始が午後1時半で終局が午後5時50分。現在でも持ち時間の短い棋戦を連闘することはあるが、まったく異なる棋戦を同一の日に行ったのはこの時の大山くらいだろう。

(※以下、2021年9月20日追記)

 別の棋戦を同一日に戦うのは羽生九段にも経験があった。2008年の1月7日に、NHK杯の対長沼洋七段(当時)戦、朝日杯の木村一基八段(当時)戦と佐藤和俊五段(当時)戦と実に3局を指している。結果は●○○。なお08年1月の羽生九段の対局数は7局(6勝1敗)だった。