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連載昭和事件史

「270名に対し、個人宛て解雇状を発送した」日本映画の運命を決定づけた戦後最大の労働争議はなぜ起こったのか

「270名に対し、個人宛て解雇状を発送した」日本映画の運命を決定づけた戦後最大の労働争議はなぜ起こったのか

東宝争議 #1

2021/10/24

 第一組合では同日(16日)午後5時から本部で闘争委員会を開いて闘争方針を協議した結果、今回の整理通告を不当として全面的に拒否するとともに、個人宛てに発送された“首切り状”は未開封のまま、組合でまとめ、会社側に突き返すことに決定。さらに会社側の今回の処置は労組法11条違反であるとして17日、都労委に提訴することになった。同時に16日決行の予定だったストは一応中止し、今後はガンジー戦術(不服従闘争)をとり、長期にわたるスト体制を確立し、執行部を通さない会社の通告に対しては一切服従せず、その間女優、芸術家グループの五所平之助監督をはじめ俳優たちから成る宣伝隊をつくり、街頭に華々しい宣伝を開始する。

「起死回生のため、やむを得ず行った大手術である」

 五所平之助は戦前、日本のトーキー第1作「マダムと女房」を監督。戦後も「煙突の見える場所」など数多くの作品を手がけた。読売には解雇を通告されたうち著名な人物の名簿と、そのうちの8人の写真も掲載されているほか、渡邊銕蔵・東宝社長の声明も。

 今回の整理は東宝として起死回生のため、やむを得ず行った大手術である。今回の整理に当たっては不振部門を廃し、勤怠、能力、年齢を考慮して人選したほか、一部極端な非協力者、反抗分子を退職させた。従来これら少数者に撮影所全従業員がひきずられていたことは遺憾に堪えない。今後は多数健全分子が立って会社と協力。映画商業界のため努力することを望む。

 これが、それから約半年にわたって続く第三次東宝争議の始まりだった。

第三次争議の始まりを予感させる読売の記事

発端は1945年の組合結成

 第三次争議の流れを見る前に第一次、第二次の概要を見ておこう。発端は組合結成。敗戦からまだ3カ月余りしかたっていない1945年11月2日付朝日に短いベタ(1段)記事が載っている。

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 東寶(宝)にも従業員組合

 松竹大船撮影所の従業員が所内機構の民主化など3個条の目標を掲げて映画従業員組合を結成する準備を進めていることは既報の通りだが、東宝撮影所でも良心的な映画の作製、従業員の生活擁護を要望する声が高く、俳優、監督、撮影、録音、照明の各部から代表者を出して、このほど準備委員会を結成。山本嘉次郎監督を準備委員長とし、協議を重ねている。

 山本嘉次郎は戦前から「馬」「綴方教室」などのヒット作を連発。東宝のトップを占める監督だった。約40日後の同年12月14日付朝日には「東寶争議解決 要求殆(ほとん)ど承認」という記事が。

 東宝撮影所従業員1千名はさる5日、従業員組合を結成。7日、従業員側の要求として従業員組合の承認、団体交渉権及び罷業権の承認、待遇の改善その他を会社側へ提出。闘争を開始していたが、本社民主化闘争妥結の報はこの闘争にも解決点を与え12日、会社側で従業員側の要求の大部分を承認して争議は解決した。

 当時、日本の占領に当たった連合国軍総司令部(GHQ)は、対日方針の中で労働組合結成を奨励していた。

「GHQは労働運動の助長を、政治的民主化政策とも関連させ、旧権力を解体し、日本人に民主主義的イデオロギーを身につけさせる絶好の場と考えた。『労働組合は民主主義の学校』と呼んだゆえんである」「進駐早々、産業報国会を解散させ、労働組合法の制定を急がせ、読売新聞や京成電鉄などの業務管理(生産管理)闘争を支持さえした。GHQスタッフたちは波止場や工場などに出かけて行って、組合結成や争議の仕方、労働協約の作り方のてほどきをした」(竹前栄治「GHQ」)。