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 10月6日、東宝の配給関係従業員は、ゼネスト中の映画配給を中止するかどうかで意見が内部で対立。「配給を持続すべきだ」とする配給部員はストライキ反対を表明し、日映演を脱退して第二組合を結成して会社側と単独交渉を始める。争議は大映、松竹は一応解決したが、東宝だけは解決が遅れた。大澤社長がアメリカ留学経験があり、労働問題で先進的だったためといわれる。

「ドンドンッ、ドンドンッ、と大きく玄関の戸をたたく音がした」

「ドンドンッ、ドンドンッ、と大きく玄関の戸をたたく音がした。『今ごろ誰やろ?』。編み物をしていた母が少し心配そうな顔を父に向けた。コタツにあたって新聞を読んでいた父が鍵を開けに玄関へ出た。『今晩は。夜分、突然お邪魔します』。しわがれたような男の人の声がした。『やあ、大河内さん。どうしたんです、ずぶ濡れじゃないですか?』。驚いたような父の声だった」。伊藤昌洋「映画少年」はこう書いている。

 父とは日映演委員長の伊藤武郎。黒いカッパを脱いで洋服掛けに掛けた男を見て、少年は「丹下左膳だ!」と思った。戦前は「忠次旅日記」や丹下左膳シリーズなどで人気を博し、当時は東宝に在籍していた時代劇の大スター大河内傳次郎だった。

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「あの頃はワラ半紙しかなかったのに、大河内傳次郎が奉書紙に墨痕あざやかに書いた巻き物をもって、深夜豪雨をついてわが家の戸をたたきました」と伊藤本人も「東宝争議(1948年)」(河西宏祐編「戦後日本の争議と人間」所収)に書いている。

「これは私個人の御相談です」

 第二組合の東宝従業員であった伊藤雅一の「霧と砦 東宝大争議の記録」は11月13日のことだったとしている。同書によれば、巻き物には「御願い」として次のようなことが書かれていた。

 これは私個人の御相談です。左記をお読み下さって御返事を頂きたいと思います。

1.今回のゼネストは始めから反対であった。

1.ストにはいらず話合ってほしかった。

1.はいった時は驚いたが、一週間もすれば形がつくだろうと思って見守っていた。

1.すると経済問題は通って政治的な問題が引掛かっていると聞いて腹が立った。われわれは経済問題が通れば、今この時代はいいと思う。

1.ストが永引くに従って益々不快と不安の念が多くなり、そのうちに闇夜に何か正体を視たような気がする。

1.今となっては致し方なく強圧的な命令に引きずられて出勤している。

1.反対なことをいえば組合から除名されそうだ、ナグラレそうだから我慢して黙っている。

1.このままでおさまっても、今となっては昔の東宝とは違った不愉快な撮影所仕事場になりそうだ。

1.片寄った独裁政治的制圧的な組合は軍国時代の苦い経験でもうコリゴリだ。

1.各人の自由と人格を尊重し合う真に民主主義的な楽しく仕事の出来る組合を渇望している。(以下略)

 文章の末尾には「十人の旗の会会員 大河内傳次郎」とあった。「十人の旗の会」とは、大河内を中心に集まった反ストライキ派の男女優グループ。大河内以外は長谷川一夫、黒澤明のデビュー作「姿三四郎」の藤田進、「永遠の美女」といわれた原節子、映画と舞台で活躍した山田五十鈴、高峰秀子ら。みな当時の東宝を代表するスター軍団だった。

「あまりにも計画的」な「忠臣蔵の連判状」

大河内傳次郎の「大見得」を伝える朝日のコラム

 大河内はすぐに行動を起こした。11月18日付朝日には「けふ(きょう)の話題」というコラムの中で「大河内反ストで大見得」という記事が。