ベネチア映画祭でグランプリを受賞し、戦後の名画といわれる黒澤明監督の「羅生門」は、この争議がなければ生まれなかったかもしれない。そして、その映画に主演し、やがて“世界のミフネ”と呼ばれた大スター三船敏郎もまた、この争議をきっかけに登場した。

 それは敗戦から間もない占領下の1946年から1948年まで展開された三次にわたる東宝争議。中でも48年の第三次争議は、労働組合側が撮影所にバリケードを造り、「ニューフェース」と呼ばれた新人女優たちも含めて立てこもったのに対し、警官隊だけでなく、占領軍の戦車、飛行機まで動員。「来なかったのは軍艦だけ」と、のちのちまで言い伝えられる「戦後最大の争議」となった。

 その背景を見ると、映画の資本・経営と創作に占領下日本のさまざまな要素が反映。その決着のありようはその後の日本映画の性格と動向を決定づけたように思われる(今回も「差別語」が登場する。また敬称を略す)。

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270人の首切り通告から始まった

 それは1948年4月17日付朝刊で報じられた。当時、新聞はまだ朝刊のみ、原則2ページ建てだった。2面2段だが内容が分かりやすい朝日を見よう。

第三次争議はこの首切り通告から始まった(読売)

 東宝、首切りを発表

 東宝撮影所の首切り問題は3回にわたる交渉がいずれも物別れとなり、会社は16日午後、撮影所資料調査室、動画、教育映画従業員全員、老朽者、技能拙劣な者及び会社に対する極端な反抗分子270名に対し、個人宛て解雇状を発送した。また、Aフォーム契約者(固定給によらず1本手当による者)の山本薩夫、亀井文夫、楠田清、関川秀雄(演出)、山形雄策(脚本)の5氏に対しては 契約期間満了とともに解約すると発表した。

 これにより日映演中央委員長・伊藤武郎氏以下中央委員4名、東京支部委員11名のうち9名、撮影所分会・土屋精之闘争委員長以下18名の執行部のうち10名、技術研究所の3分の2が整理されるわけで、執行部は共産党及び青共のメンバー約80名が首切られるとみている。俳優は契約期間が切れて解約されるが、斎藤英雄、赤木蘭子、浅田健三、河崎保氏ら50名が含まれ、会社から製作中止を命ぜられた映画「炎の男」のプロデューサー、監督、助監督、カメラマン、技術などの製作スタッフも整理の対象となっている。

 山本薩夫は独立プロの映画で活躍。その後「忍びの者」や「白い巨塔」「戦争と人間」などの話題作を監督した。亀井文夫は戦前は「戦ふ兵隊」、戦後は「日本の悲劇」などの秀作を生んだ日本のドキュメンタリ―映画の第一人者。関川秀雄も「きけ、わだつみの声」「ひろしま」などの監督として知られる。山形雄策は「暴力の街」や「真空地帯」で知られる脚本家。日映演とは、2年前の1946年4月に結成された日本映画演劇労働組合のこと。伊藤武郎はプロデューサーで、その後「ひめゆりの塔」「キクとイサム」などを手がける。

 同じニュースは毎日も2段だったが、読売は2面トップ。そちらも見てみよう。