資本家側は着々と反撃の準備を進めた。GHQの方針転換がそこに加わった。

「1946年後半の第二次読売争議のころから、GHQは労働運動の行き過ぎに警戒心を持ち始め、特に左翼的な産別会議系の運動に規制を加えるようになった。そのクライマックスは、官公労を中心とする1947年の『二・一スト』禁止に表れた」(「GHQ」)

 民間と官公庁労組計650万人が結集した全国労働組合共同闘争委員会は、共同要求が認められなければ、無期限のゼネストに入ると通告していた。それが前日になって連合国軍最高司令官マッカーサー元帥からの指令で中止された。潮目が変わり始めていた。

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渡邊銕蔵社長(「東宝二十年史抄」より)

 大澤社長が映画界の公職追放に該当するとの見通しもあって、同年3月、田邊加太丸が東宝の社長に就任した。阪急・東宝グループの創業者、小林一三の実弟。そして12月には田邊は会長となり、社長に渡邊銕蔵を据える。労務担当重役を新設して馬淵威雄が就任。撮影所長に三宅晴輝(のち北岡壽逸に代わる)が送り込まれる。これは「田邊クーデター」と呼ばれた。

 いきさつを渡辺は著書「反戦反共四十年」に書いている。渡邊は東大卒。イギリス労働法の権威で、東大教授、衆院議員などを務め、戦前は軍国主義に反対して投獄されたことも。筋金入りの反戦・反共主義者だった。

 昭和21(1946)年(1947年の誤り)11月のある日、同窓の友である東宝映画会社の社長、田邊加太丸君が日比谷公園のそばにある私の主宰する渡邊経済研究所を訪ねてきた。用件は労働組合と団体協約の改定をやるので知恵を貸してくれぬかとのことであった。初めは顧問という話であったが、数日後に平重役で来てもらいたい、1週1度、1時間ぐらいの重役会に出席すればよいとのことで承諾した。重役会に出てみると、会社は大きな赤字で苦しんでおり、また金融難にも悩んでおったようだ。

 そして「12月中旬になって田邊社長が突然、私に社長になってくれと言い出した。私は極力拒絶したのであるが、結局各方面の勧説と重役会の切望によって社長を引き受けることになった。そして、田邊加太丸君は会長におさまった。このごろは東宝内部に共産党の跋扈(ばっこ)しておるありさまが私にもかなり分かってきたので、共産党と張り合わせるために私を社長に引っ張り出したものと感づいた」と「反戦反共四十年」では述べている。

裏で糸を引いた人物が…?

 しかし、状況や経過をよく見ると、言葉通りとは思えない。「来なかったのは軍艦だけ」の座談会では争議当時、撮影所の美術監督で座談会時は日本共産党中央委員の宮森繁が彼らのことを話している。

 馬淵威雄という人は戦争中、中島飛行機で課長をやっていて、その後、厚生省の労務官ですね。それから中労委の第一部長というところにいて東宝へ引き抜かれてくる。

 撮影所長は第一期が三宅晴輝なんです。この人は東洋経済新報社にいて、ジャーナリストでリベラリストでした。東宝に来たときに私たちが「インターナショナル」などを歌って迎えて、取り囲んで「やめろ」と言ったら「僕はやめてもいいんだ」ということを発言して、これが後で彼の命取りになります。のちに本人自身も弱気でやめていく。それで北岡壽逸が撮影所長になる。

 北岡壽逸は農商務省事務官、工場監督官補、内務省社会局労働部の監督課長などを経て、戦後はILO(国際労働機関)の常任理事、それから住宅公団の副理事長。

 当時、経済安定本部の第四部長です。このときに引き抜かれてくるんですね。