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「会社の言い分は言いがかりに等しい」

 メンバーの1人だった黒澤監督は「新日本文学」1948年7月号の「東寶の紛争―演出家の立場から―」という文章で「僕たちは、今度の紛争における会社側の言い分ややり口について、次のような点が容認できない」と述べ「会社側がこの首切り案を合理化するために発表した数字には多分に意識的なうそがある」とした。

(1)東宝は人員過剰であるという印象を無理やりでっち上げている(2)赤字の問題にも再上映の収入を無視したトリックがある(3)団体協約は会社と組合が結んだのだから、責任を組合にばかり押し付けるのは勝手すぎる――。「会社の言い分は言いがかりに等しい。これでは組合がかわいそうである」。そう述べ、こう結論づけている。

「今度の会社側の暴挙は、僕たちがP.C.L(東宝の前身の1つ)以来十数年間、営々と築き上げてきた東宝という映画製作の母体すらズタズタに切断しかねないのである」

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「東宝争議 きよう仮処分強行」

 8月15日付毎日は「砧撮影所を仮処分 東宝争議 会社側の申請通る」の見出しで次のように報じた。

「さる9日の紛争以来、日映演、撮従の両組合が対立し、不安定状態を続けていた東宝撮影所に対する東京地裁の仮処分が注目されていたが、同地裁民事14部・新村判事らは13日、さる5月、会社側が行った申請を相当と認めて執行を決定。14日朝、執行吏を世田谷区喜多見の同撮影所に向かわせたが、組合員の拒否に遭い、同日は執行を行わず、いったん引き揚げ、後日行う」

 あとは都労委しかなかった。都労委の会長は民法・労働法の権威の末弘厳太郎・東大名誉教授。「もつれた東宝争議の斡旋に積極的に乗り出し、16日午後、会社、組合を招いて事情を聴いた都労委・末弘会長は、同夜遅く両者に『会社、組合は1週間内に協議して再建案を立て、人員整理問題もその一部として解決する』よう申し入れ、17日午後5時までに回答を求めた」(8月18日付朝日)。

 末弘会長は会社側に厳しい見解を持っていた。申し入れを日映演側は受諾したが、会社側は17日の重役会で拒否を決定。渡邊社長は「既定方針で進むよりほかない」と語った。仮処分が決定した以上、強硬姿勢でいくという意思表示だった。8月19日付毎日には「会社側調停を蹴る 東宝争議 きよう仮処分強行」の見出しが躍っている。

 そして8月19日の模様は20日付朝日の記事を見よう。

「8.19」撮影所は武装警官隊に包囲された(「画報現代史 戦後の世界と日本第4集」より)

 仮処分ついに執行 東宝組合側 砧撮影所明渡し

 末弘・都労委会長の申し入れ書を会社側が蹴った結果、再び注目された東宝砧撮影所の仮処分執行は19日朝、東京地検の手で強行された。

 警視庁ではこの日朝8時半、予備隊2000名を動員。民事訴訟法に基づいて執行吏援助のため成城署員とともに出動。撮影所の通路8カ所の交通を断って3万坪(約9万9000平方メートル)の同所を包囲。9時20分、塚本・成城署長は東京地検・堀検事正、田中警視総監名の勧告文を読み上げたのち、土屋委員長に手交。次いで東京地検の執行吏4名が組合幹部に面会を求めた。

 組合側は職場大会にかけた結果、午前10時55分、ついに仮処分を受諾。交渉は円満に成立して11時50分、組合員は裏門から労働歌を高唱しながら退去を開始して、正午完了。予備隊は直ちに正門のバリケードを破壊して撮影所内に入った。退去した組合員800余名は撮影所から30メートル余離れた演技研究所にひとまず入り、正午、春田弁護士ら会社側代理人は野坂支配人と所内を一巡して仮処分執行の公示書を掲示し、手続きは一段落した。