「飛行機3機、戦車7台、騎兵一個中隊をもって、警察に先んじて出陣した」
「日本映画発達史Ⅲ」にはもう少し細部の描写がある。
「11時すぎより組合員は職場別に中央広場に隊伍を整え、四列縦隊に腕を組んでインター(ナショナル)を高唱しながら、籠城134日に及ぶ撮影所を後に、裏門から撤退を開始した。先頭の赤旗について、伊豆から病躯を押してかけつけた五所平之助の悲壮な姿が見え、谷間小百合、若山セツ子、久我美子、中北千枝子らの涙にぬれた顔も見えた」
新聞の記事だけでは当時の現場の物々しさは伝わらないようだ。「日本映画発達史Ⅲ」は「東宝撮影所の内外は、一触即発の緊迫した空気をはらんでいった。この日、警視庁の要請と日本の民主主義を擁護する建前でアメリカ占領軍第八軍の一部も飛行機3機、戦車7台、騎兵一個中隊をもって、警察に先んじて出陣した」と書き、次のようなロイター通信配信記事を引用している。
米軍の示威運動はこの日早朝、スタジオの周辺に到着した6台のジープと騎兵銃を持ったMPによって始まった。続いて一個分隊の歩兵と6台の装甲車が到着し、スタジオ外側をあちこち哨戒した。そして間もなく3台の戦車が直ちに表門に位置を占めた。日本の警官隊の主力が到着したのは、米軍が配置についてからずいぶん時間を経過してからであった。警官隊は米国製のトラックに乗り、ピストルをつけ棒を持ち、かけやととび口を用意していた。彼らはかつて日本軍が使った鉄かぶとをかぶっていた。攻撃の先鋒は表門にピタリとつけられた改装された日本戦車であった。内部の争議団に対して最後通牒が発せられるのと同時に、この改装戦車はエンジンのうなりを立てて、いまにもバリケードを破壊せんものと身構えていた。警官隊の攻撃準備完了とともに、第一騎兵師団のH・F・T・ホフマン准将は彼の従える米軍の指揮に立った。頭上の偵察機には、同師団の最高司令官W・C・チェイス少将が乗り、全行動を統括した。
こうして「空には飛行機、陸には戦車、来なかったのは軍艦だけ」とうたわれた「東宝争議8・19事件」は幕を閉じた。約2か月後の10月19日、労使交渉の結果、伊藤・日映演委員長ら20人が自発的に退社することで決着。第三次東宝争議は195日ぶりに解決した。
しかし、それで全て終わったわけではなかった。約1年半後の1950年5月、会社側は1200人の人員整理を通告。争議が再燃したが、同年6月に始まったレッドパージで最終的に共産党員とシンパは映画界から追放されることになる。
「献身的な気持ちがなくなった」
「東宝争議・レッドパージとは何だったのか」は次のように解説する。
「東宝争議で組合が実現させたシステムは、映画企業の変容を意味した。しかし、のちに日経連・経団連へと組織化する資本家と経営者たちは、経営権・人事権・企画権を労働組合がコントロールする東宝の企業経営の形態を危険視した。従来の資本家と経営者の存在を、いうなれば資本主義の在り方を根本的に揺るがしかねない事態が東宝で進みつつある、と彼らは見抜いたのである」
「そこですぐさま資本家と経営者のグループは、組合の経営権などへの介入を排除しようと、さまざまな方法で画策した。この画策には占領軍も関与した。この構造的な問題が、幾年にも及ぶ東宝争議の本質であり、結果的に東宝で組合が実現したシステムは第三次争議で崩壊させられる」