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 宮森は、大澤善夫・前社長の交代について「(資本側は)『大澤のような者に任せていては、東宝の将来が危ない』ということになったのでしょう」「向こうも従来の資本攻勢ではなくて、相当計画した布陣を敷いてくるということが分かりました」と語っている。

 渡邊銕蔵について宮森は「団体交渉の席上、『映画は何を見たことがありますか』と聞いたら『「ジゴマ」(明治44年に輸入公開されたフランス映画。怪盗もので当時人気を呼んだ)を見ている』という発言をした。こういう人物ですね」と語っている。映画にその程度の知識と関心しか持っていないということ。映画界の事情を知るはずもない。背後に司令塔のような存在が感じられる。

 裏で糸を引いていたと疑われるのはまず小林一三だろう。1946年1月に公職追放になり、表には出ていなかったが、隠然たる存在だった。1949年に出版された随筆集「逸翁らく書」には「大河内傅次郎君へ」という一文がある。大河内の「御願い」の一部を引用。「結局は強圧的な命令でひきずっていく独裁政治的制圧的な組合が、そういつまでも盛んであるべき理由はこれなしと存じ候」と書いている。本拠である東宝を“共産党に蹂躙される”のは、自分の名誉を傷つけられ、メンツをつぶされること。日本屈指の経済人・財界人である彼がそれを座視していたとは思えない。

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 彼が黒幕と疑われるもう一つの理由は、彼の正伝と思われる「小林一三伝」(1954年)の著者が、当初撮影所長に送り込まれた三宅晴輝であること。肝胆相照らす関係だと想像できる。この伝記には、東宝争議のことが三宅自身の関与も含めて全く触れられていないのが“疑惑”を増幅させる。小林は追放解除後の1951年10月、東宝社長に復帰する。

「本当の目的は、これを機会に東宝から赤を追放することだ」

 1948年4月17日に報じられた首切り案だったが、浮上したのはこの日が初めてではなかった。10日前の4月7日付読売には「銀幕の反共旋風東宝版 “赤字映画”嫌つ(っ)て大量のくび切り 渡辺社長 第一組合と対立」という記事が2面トップで載っている。これは当時アメリカ・ハリウッドで起きていた“赤狩り”と関連づけた見出しだった。

 東宝第一撮影所のある都下砧村を舞台に、東宝第一組合対会社側の、争議に絡む日本映画界の“赤追放旋風”が吹きまくろうとしている。渡辺東宝社長は6日、「砧村から共産フラクを一掃するのだ」と一両日中に大量整理を断行する決意を示し、第一組合内部に大きな反響を呼びつつあり、大衆に直結した銀幕の“反共運動”が今後どう展開するか、注目を集めている。

 東宝争議再燃の直接のきっかけとなったのは、国鉄従業員を主題に国鉄労組の積極的な技術援助を受けて撮影準備を続けてきた「炎の男」が採算がとれぬとの理由で製作中止となったためだが、その後、会社側は組合に対し集中排除法の適用による企業整備と、組合員の経営参加拒否を提示し、さらに人事権を会社側が握る新団体協約案を持ち出したことから、にわかに悪化。さる1日には東宝演劇分会が日映演と絶縁し、第一組合から脱退して第四組合を結成するなど、組合側は内部分裂のあえぎを見せており、会社側はこの虚を突いて、経営合理化を理由として日本映画界始まって以来の大量首切りを断行することになったものである。