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連載昭和事件史

2021/10/24

 生産管理とは、労働者が経営に参画すること。東宝争議もこの時期はGHQの姿勢が大きな後押しになっていたのだろう。これは第一次に先立つ「第0次争議」だった。

スターたちの銀座デモ

 その後、賃金要求が中心となる第一次争議に至るまでの新聞報道はほとんどない。

 1946年3月20日付読売報知(当時はそういう名称だった)には「映畫(画)スターも街頭デモ 東寶の争議」という見出しの記事が見られる。

「『聞け万国の労働者、とどろき渡る』。メーデー歌を映画俳優・長谷川一夫が絶叫している。監督・山本嘉次郎も竹久千恵子、高峰秀子、岸井明なども歌っている。19日午後1時半から、銀座の東宝本社前戦災跡広場で東宝従組青年部主催の『交渉委員(待遇改善を闘っている)激励会』が盛大に行われた」

 長谷川一夫は戦前・戦後の時代劇の大スター。竹久千恵子は戦前から舞台・映画で活躍し、高峰秀子は戦前は「馬」「綴方教室」、戦後は「二十四の瞳」「浮雲」で一世を風靡した名女優。岸井明は巨漢の歌う喜劇俳優として親しまれた。まだ撮影所が一体となって闘争に立ち上がっていた時期だった。

第一次争議で銀座をデモする女優たち(朝日)

 その後の第一次争議について4月3日付読売報知は2面トップで「十日で収入五百萬(万)円 經(経)営管理の凱歌 東寶争議に解決點(点)」の見出しで伝えた。「東宝争議は1日午後1時から銀座本社で大澤社長と組合側・伊藤委員長ら交渉委員との間に行われた交渉で、組合側の要求は大部分入れられることになったが、経営協議会の処置の問題につき、さらに引き続き2日午後2時から交渉を進めている」。

 田中純一郎「日本映画発達史Ⅲ 戦後映画の解放」には「15日間の闘争のすえ、最低給与600円(本給200円、臨時手当400円)の組合要求を貫徹させ、4月3日に至って生産管理委員会(委員長・井関種雄、委員・全社部課長)設置を含む第一次ストライキを終わった」とある。生産管理に一歩踏み出したわけだ。

街を走る日映演の人形劇団宣伝トラック(「画報現代史-戦後の世界と日本第4集」より)

 当時の600円、200円、400円はそれぞれ現在の約2万4400円、約8100円、約1万6300円に当たる。同書はさらにこう書いている。「この東宝労組の成功が他の松竹、大映その他の従組に与えた刺激は大きく、4月28日の日映演結成にまで誘導した役割は見逃せなかった」。

第二次争議が始まった約半年後…足並みの揃わない決行前夜

 大澤社長とは大澤善夫。東宝の前身の1つ「J.O.スタジオ」の創業者で、1943年から社長を務めていた。「日本映画発達史Ⅲ」によれば、日映演は日本共産党の指導下にあるといわれた全日本産業別労働組合会議(産別)に加盟。結成当時の組合員は1万800人。東宝が5600人と半数以上を占め、松竹2740人、大映1000人などだった。

第二次争議の「銀幕ゼネスト」の影響を報じる朝日

 第二次争議が始まったのは約半年後の1946年10月。産別の「10月攻勢」に呼応して日映演は10月15日からゼネストを計画。各映画会社が日映演の団体交渉権を認めることなどの要求を出した。

 これに対し、経営者側は「経営権の侵害」と反発。組合側にも足並みの乱れが出始め、ゼネストは決行されたものの、一部不参加の組織もあった。

 10月14日付朝日には「足並揃は(わ)ぬ決行前夜 業務関係に強い反対氣(気)運」という記事が見える。その後も交渉が続けられ、10月29日付朝日は「異變(変)續(続)出する銀幕スト 正月映畫(画)お流れ 東寶の損害、日に廿(二十)萬円」と報じた。