昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

連載昭和事件史

2021/10/24

 これについて佐藤洋「東宝争議・レッドパージとは何だったのか」(岩本憲児編「日本映画史叢書(11)占領下の映画―解放と検閲」所収)は「第二次東宝争議の結果、団体協約によって、労働組合は経営権・人事権・企画権の決定権の一部を制度的に獲得した。組合は、自分たちが参加し発言する権利を持つ経営協議会、企画審議会などを制度的に設立し、経営・人事・企画の決定をそれらの制度によってコントロールするシステムを東宝に確立したのである」と位置付ける。その意味は大きかった。

 資本家側の危機感は強かった。争議の記憶が生々しい1954年に刊行された「東宝二十年史抄」は「共産党を撃退して生き抜いた東宝」の章の「東宝を乗っ取った共産党」の小見出しでこう記す。

「従業員の団結固しと見てとった組合幹部は、従業員がいまだかつて考えてもみなかった労働協約草案を掲げて、これが承認を会社側に迫ったのである。当時共産党は読売新聞の争議を通じて獲得した経営協議会方式をもって深く経営権、人事権に食い込み、究極においては経営権を労働組合の手に握ろうと狂奔していた時代であった」

「55日にわたる完全ストライキに、ついに会社は莫大な損害をこうむった揚げ句屈服した。労働協約案は組合の主張する通りに締結せられた。かくして会社の経営は組合の手に握られてしまった。すなわち、東宝の共産党支配はここに完成したのである」

「東宝にはスターがいなくなったんです」

 一方、伊藤武郎・元日映演委員長は第三次争議から23年後の1971年、雑誌「季刊現代と思想」9月号の「来なかったのは軍艦だけ」という座談会で当時のことをこう語っている。

 東宝では監督、脚本家など芸術家の発言が最初から強かった。東宝争議で組合が強かったのはそこにある。その団体協約に基づいて(19)47年の経営の民主的運営というものがあるんです。

 47年3月に分裂した連中が新東宝をつくるのですが、新東宝との分裂で東宝にはスターがいなくなったんです。だから、われわれは作品で勝負しなくちゃならない。意欲的な監督はみんな第一組合に残ったけど、スターは新人ばかりなんですね。久我美子、岸旗江、伊豆肇、三船敏郎、これらはみんな研究生でした。それに、研究生に毛の生えた程度の沼崎勲、池辺良。こういう新人を使った映画で対抗しなければならない。そこで「戦争と平和」「わが青春に悔いなし」などが作られ、これが大衆の支持を得て48年の闘争を長期に支えるわけです。

 久我美子は公家華族の侯爵家の長女で、「また逢う日まで」「挽歌」などで清純派女優の地位を確立。岸旗江は「戦争と平和」「女の一生」などで強い女性を演じ、伊豆肇は「青い山脈」のバンカラ学生役で知られた。三船敏郎は言わずと知れた「酔いどれ天使」から「羅生門」「七人の侍」「用心棒」など、黒澤明監督作品の主役や海外作品への出演で「世界のミフネ」と呼ばれた戦後の大スター。

 彼らはみな1946年6月に採用された「ニューフェース」の第一期生だったが、「十人の旗の会」のスターたちがいなくなった後、苦肉の策でスクリーンに登場してきたことになる。沼崎勲は黒澤作品「素晴らしき日曜日」の主演で、池辺良は戦後映画で長く活躍した二枚目スターだった。

 そして、伊藤の言うように、労使による企画審議会で決定した作品が映画化された1947年は「キネマ旬報」のベストテンで10本中、東宝作品が6本を占めた。優良作品を送り出すことはできていたが……。

◆◆◆

 生々しいほどの強烈な事件、それを競い合って報道する新聞・雑誌、狂乱していく社会……。大正から昭和に入るころ、犯罪は現代と比べてひとつひとつが強烈な存在感を放っていました。

 ジャーナリスト・小池新による文春オンラインの人気連載がついに新書に。大幅な加筆で、大事件の数々がさらにあざやかに蘇ります。『戦前昭和の猟奇事件』(文春新書)は2021年6月18日発売。

戦前昭和の猟奇事件 (文春新書 1318)

小池 新

文藝春秋

2021年6月18日 発売

この記事の写真(9枚)

+全表示

ツイッターをフォローして最新記事をいち早く読もう

文春オンラインをフォロー