そんな中でも、日本は相変わらず国家として自律的な判断を下すことができず、新型コロナウイルス対策は後手に回り、最大級のパンデミックのさなか、「外圧」に負けてオリンピックを開催せざるをえなかった。
「日本人は幼児」という小松の冷徹な「自己評価」は、「日本沈没」の刊行から半世紀近くを経た現在もそのまま当てはまる。日本人は、どうすれば「おとな」になり、厳しさを増す「世界の荒波」の中を乗り切っていけるのか。小松が「日本沈没」という極限状況を想定することで日本人全体に投げかけた巨大な問いかけは、ますます切実さを増しているのだ。
そして、その問いに答えるために、どうしても避けて通れないのが、日本が自律性を喪失した最大の原因である「太平洋戦争の敗北」をどのように受け止め、乗りこえ、後の世代へと語り継いでいくかという、戦後76年を経て、いまだに合意に至っていない問題だ。
小松自身にとっても、先の戦争は自らの実存それ自体を左右するほどの重い体験であり、生前には「戦争がなかったら、私はSF作家にはならなかった」とたびたび発言している。その言葉通り、「日本沈没」「復活の日」、そして22世紀の太陽系をブラックホールが襲う「さよならジュピター」(1982年)と、「破滅の危機」を描き続けた小松の大作SFには、先の戦争の濃い影と苦悩が描き込まれている。
少女が惨殺された経験も
小松は1931年、大阪市に生まれた。著書「小松左京自伝」「SF魂」によれば、子どもの頃から父親に連れられて寄席やチャップリンの映画などに親しみ、「自他ともに認めるひょうきん者」に育ったが、1943年に神戸一中に入学してからは、戦局が悪化する中、あえて悪ふざけをしては教師や先輩の怒りを買い、始終殴られ、飢えに苦しみ、空襲に遭い、米軍機の機銃掃射で死にかけるという「今も心の傷がずきずきと痛む、屈辱的かつ悲惨な戦時」の日々を過ごした。
作家の野坂昭如が小松の作品集「ウインク」に寄せた解説によれば、小松は野坂に対し、焼夷弾で串刺しにされた女学生や、GIに強姦されて死んだ幼い女の子など、凄惨な戦中・戦後の話を語っていたという。
敗戦の時、小松は14歳。「もしあのまま戦争が続いていたら(中略)恐らく武器を取って敵と戦って、戦場に斃(たお)れたに違いない。そう考えると、地面が崩れ落ちるような恐怖が押し寄せた」(「小松左京自伝」)という。