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連載日の丸女子バレー 東洋の魔女から眞鍋ジャパンまで

2021/12/18

「娘の命を授かったとき、この子は何があっても私が守ろうと思った。その代わりにバレーを諦めました。でも眞鍋さんは、どちらも出来る環境を整えてくれたんです。そこまでしてもらったら、もう死ぬ気で頑張るしかないじゃないですか」

ほぼ4カ月間で、主婦の体つきからアスリートの身体に

 08年、久光製薬スプリングスに入団。子育てに専念していた2年間で、筋肉はすっかり衰えていた。ゼロから身体を作り直す必要がある。走り込み、ウエイトトレーニング、ボール練習で骨を軋(きし)ませ、吐き、体中に青あざを作った。

 練習後は身体を引きずりながら、夕飯の準備のためにスーパーに立ち寄る。そのたびに見知らぬ年配の女性たちから声をかけられた。

「傷、大丈夫ですか」

「専門家に相談したほうがいいですよ」

「施設を紹介しますよ」

 大友が大笑いしながら言う。

「久光の練習場は神戸。親切心たっぷりの関西のオバサンたちは、私をDV(ドメスティックバイオレンス=家庭内暴力)の被害者と間違えたみたい。重い足取りで娘の手を引き、練習の疲れで暗い顔をしていれば、そう思われてもしょうがないですね」

 当時の大友を、眞鍋が呆れたように言った。

「彼女は性格からすると男性で、復帰すると決めた途端、脇目も振らずにトレーニングに取り組んだ。その頑張りは傍(はた)から見ていても半端じゃなかった。ほぼ4カ月間で、主婦の体つきから、アスリートの身体に戻しましたから」

ナショナルチーム入りの打診がくるが…

 すぐにスタメンとしてコートに立ち、08年-09年シーズンのV・プレミアリーグで久光を準優勝に導き、09年の黒鷲旗でベスト6に選ばれた。

 この年、眞鍋が全日本監督に就任しチームを離れたことから、大友は竹下がいるJTマーヴェラスに新天地を求めた。ミドルブロッカーとしての感覚を取り戻すと、全日本やかつての所属先NECで長年コンビを組んできた、竹下のトスを打ってみたくなったからだ。

中途半端な形でバレー界を去ってしまった自分にけじめもつけたかった ©文藝春秋

 竹下のトスで、さらに速いブロード攻撃や速攻を身につけた大友は、2年連続でV・プレミアリーグでベスト6に選ばれ、11年の黒鷲旗ではMVPに輝くなど、日本一のセンターとして不動の地位を築く。ナショナルチーム入りの打診が、全日本監督の眞鍋からあったのは、秋に世界選手権を控えた10年春のことだった。

 大友は逡巡する。全日本メンバーになれば合宿、海外遠征が続き、娘とは一緒にいられない。別居中の夫にも頼めなかった。一方で、もう1度日の丸のユニフォームが着たいという気持ちも湧き上がる。06年、中途半端な形でバレー界を去ってしまった自分にけじめもつけたかった。